2017年12月10日日曜日

クリスチャンミニストリー「いどばたのおしゃべり」 Vol1 マリアの視点で真実を見る【処女受胎は真実】



イエスを信じない人にとって、聖書に書かれていることは、ただの神話にすぎないでしょう。



私たちイエスの聖徒にしてみれば、イエスの命令に従うことはごく当然のことなんです。なぜなら、この世界を創造した創造主の命令なのですから。

でも、信じない人々にしてみれば、その「創造物語」にしても、イエスの数々の奇跡にしても、それらはみな、「神話」あるいは、「嘘」にすぎないのです。



今はちょうど、降誕節

イエスがこの地上に人の子としてお生まれになったことを、お祝いする時と、教会組織が定めた時節です。



イエス誕生の逸話はあまりにも有名です。



ルカによる福音書 1章30節-34節

30 すると、天使が言いました。「こわがらなくてもいいのです、マリヤ。神様があなたにすばらしいことをしてくださるのです。 31 あなたはみごもって、男の子を産みます。その子を『イエス』と名づけなさい。 32 彼は非常に偉大な人になり、神の子と呼ばれます。神である主は、その子に先祖ダビデの王座をお与えになります。 33 彼は永遠にイスラエルを治め、その国はいつまでも続くのです。」 34 マリヤは尋ねました。「どうして私に子どもができましょう。まだ結婚もしておりませんのに。」


男性経験がないマリアがみごもるという、受胎告知です。



神を信じるものは言います。「神様なんだから、これくらいできる。だからこれは真実」

でも、神を信じない人々は言うでしょう「処女はみごもらない。だからこれは嘘。」



この世の科学で考えたとき、正しいのは後者です。

しかし、本当にそれは真実でしょうか。



私もかく言いつつ、この「処女受胎」は「虚構」だと思っていました。

未婚のあいだに、男性と交渉をもってみごもったマリアの処世術。賢いじゃない!

そう思っていたのです。

当時のユダヤ社会で未婚の母になるなどと、とんでもないことなんです。

タブーの中のタブー。リンチを受けて、石を投げられゆっくりと殺されるかもしれないのです。

だから、ヨゼフが彼女と結婚するかしないかは、彼女にとって命がけの勝負です。

「処女だけど、神様の子供をみごもった。」ぐらいの嘘をついたって、不思議はないのです。



しかし、信仰に立ち返って、信仰の目で見た時、全く違う、マリアの視点が見えてきたのです。



私は毎日、イエスの十字架の犠牲を思いながら祈ります。

私は劇作家でもあるので、祈るとき、かなり立体的にそのシーンを頭の中で再現しつつ、そこに臨場するかのように想像するのです。

いつものように、私はイエスの血まみれの足元に居ました。

「イエス様、あなたの真実を、救われるべき魂に伝えるにはどうしたらいいでしょう?」

すると、イエスは十字架の上でこうおっしゃったのです。

「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」(ヨハネ19:26)

私ははっとして、振り向きました。

そこには、イエスの母マリアが、苦渋の涙を流しながら立ちすくみ、イエスを仰ぎ見ています。



この姿を通して、私は真実に気付かされました。



イエスの処刑は、ローマ側の記録にも残っています。

そして、この処刑の場に、母親のマリアが立ち会っていることは、



マタイ27:55-56

マルコ15:40

ヨハネ19:25-27



に記されています。

その場に母マリアがいた。黙って見守っていた。

ありえない!!



私は思いました。

黙って見守っていた?。。。そんなことあるはずがない!



この当時のユダヤはローマ帝国の占領下にありました。

ですから、イエスは逮捕されて、ユダヤ側の裁判を受けたあと、ローマ側に引き渡されたのです。ユダヤ側の裁判は公正からは程遠いものでした。しかし、ローマ側の裁判で、ピラトはイエスを見てこう言いました。「この男に罪は見受けられない。」

彼らは、イエスを許そうとしていたのです。

その場にマリアも立ち会っているのです。

母親として、もし処女受胎が虚言だったなら、そこで叫んでいたはずです。



「全部、嘘だったんです!」



自分の嘘を真に受け、神の子供だと信じ込んだ息子が、なんだか宣教活動をして大ごとになったけど、息子は気がおかしいだけなんです。

この時にマリアがそう叫んでいたら、ユダヤ側もイエスの権威を失墜させれて用は果たされ、処刑は免れたかもしれません。

おそらく、もし処女受胎が嘘だったなら、そう叫ばずにはいられないはずです。



マリアの母性に問題があり、子供を見捨てるほどに愛がなかったなら、その場にすらいなかったハズなのです。



でも、彼女は叫ばず、泣きながら、一部始終を見守ったのです。

これは無言の証です。

二千年の時を超えて、母親の愛という普遍の真理が私たちに叫ぶ真理の証です。処女受胎が真実であり、イエスの受難が神の御心あったからこそ、彼女は黙って見守ったのです。そうするしかなかったのです。

処女受胎を告知された時の彼女の言葉と、ゲッセマネの園で血の汗をながされたイエスの言葉とが同じなのですが、神の前にひざまずき、神の愛を信頼し、希望をもってただひたすら従う「強い信仰」と言う名の愛が、この言葉に溢れ出ています。



「御心通りになりますように。」


2017年11月22日水曜日

宗教はやっぱり、いらない!

https://youtu.be/JdzZv-XMXPU
財源確保
イエスの知恵のフランチャイズ化

私にはそれにもう加担する事が出来ませんでした。

私達キリストの弟子はその一人ひとりが「教会」であり、
「教会」はイエスの体なのです。

もし、財源確保のために、イエスの業をさも「牧師でないとできない。」様に見せて権威を囲ってしまったのなら、それは

「イエスの体」を商売にしている

つまり

「イエスを売春している。」

2017年11月19日日曜日

いるやん!イエスの弟子

さて、ほかに書かなくてはいけないことが、間に入ってきたので
私の「イエスへの弟子入り」の経緯を書くのが遅れました。

去年の10月まで、私はどちらかと言うと
教会が嫌いでした。
理由はこのとおりです。

教会組織がしていることは、とんでもない絵空事に見えたのです。
どうして、聖書に書いてある使徒たちと
自分たちがこんなにも違うのか、考えないのだろうか?
と・・・思っていました。

ところが、去年の10月、同じマンションに住む子供たちとその親に
息子がイジメられ、嫌がらせが続きました。
30歳をとおに超えたおばはんらが、息子をあからさまに無視したり
プレゼントを突っ返してきたり。

つらい日々でした。
それまで、同じ学年の子供たちの間で、中心的人物だったはずの息子が
今度は、母親たちの意図的な「村八分」にあったのです。
しかも、息子は何もしていません。
暴力を奮ったり、死んでなどの言葉で息子を傷つけたのは
あちらです。

私は鬱にかかり、息子を道ずれに自殺を考えました。
魂の救いがほしくて、教会にすがったのです。
今この時にも、キリストの弟子がいるとは知らず
もういないんだから、イエスの教えを知るには
教会しかないんだと思いました。
教会員になり、教会を中心とした生活が始まり
私は少しずつ、自尊心を取り戻しました。

しかし、教会でも、いろんな疑問がありました。
聖書の学びの中で、教会リーダーが「教会は仏壇にもっと寛容にならないと、信者を増やせない」というのを聞いたり(べつに、教会は「仏壇を壊せ!」と強要などしてないのに)
BBQで、未信者のお友達を連れてきたら、その彼女に向かって「え?サイズのわりに食べないのね。」と、教会リーダーの奥方が言ったり
とにかく
どうして、この人たちは、聖書に書いている信徒たちみたいに
癒せないんだろう?異言を話さないんだろう?
ずっとわからずにいました。

この教会の人たちは、平気で挨拶をしなくなったり、睨んだり、無視したり避けたり
ジャマイカ人の家族で来ている人たちをチヤホヤ依怙贔屓したり・・・
これがキリストの弟子なのかな・・・と思ったり。
ただの仲良しグループなんじゃ?
と思いました。
それでも、居場所を求めて私は自分に言い聞かせました。
仕方がないんだ。いい人たちなんだから、これでいいんだ。

ところが、そんなときに、
この人の動画をみたのです。

デンマークのキリストの弟子 トーベン・ゾンダーガードです。

ショッキングでした!
いるやん!
おびただしい数の人が、異言を話し、悪霊を追い出し、なにより
手をかざしてイエスの御名によって病気、ケガが癒されています。
まるで、バプテスマのヨハネがよみがえったかのようでした。


私は、怖くなりました。

わたしは、救われていない!

17歳の時に受けた洗礼はただの水浴びで
聖霊は明らかに私の中にいない!

聖書の言う救いに程遠い。
リョリョは?!
母親として、息子を正しい信仰に導かなくてはいけない。
気が遠くなりました。

イエス様!私はあなたの真理の道にたどり着きたいのにたどり着けないでいます。
どうか、キリストの弟子に会わせてください。

私は3日間の断食をしました。
その直後、紆余曲折を経て、出会ったのが、「Love of Christ Ministry International」のリーダー、ロバート・クルソン氏です。
トーベンがバプテスマのヨハネなら、ロバートは、バルナバのような人で、癒しの業を行う「器」でもあるのですが、柔和で、朗らかな人柄で、迷える魂を聖霊との出会いに導いていきます。

もともといた教会に文句があるわけではありません。えこひいきされていない方は、むくれたくなる時もありましたが、他のところで、さんざんチヤホヤされる人生を歩んできた私ですから、中心的人物でなくても喜ぶことができるよう、試練の機会をいただいたことを、感謝していました。
やっと、居心地も良くなってきたのです。

でも、単に、この世を創られた神の命令に従いたかったのです。
私はロバートによる水の洗礼を受けることを決めました。
そして、はっきりと「教会から離れることで、そこにいる人たちを啓発しなくてはいけない。」という声を聞いたのです。


2017年11月17日金曜日

聖霊の正体2 サイドライト

前回の記事で私が「聖霊という形態で生きておられる」と書いたのですが、これが、「異端認定されたナントカ派の考えだ!」と、「オーソドックスきょうかい」組織の面々からご指摘を受けました。「時代ではない。」とか・・・

まず、私はこの「オーソドックスきょうかい」の組織が、異教徒ミトラ教徒によって、ミトラ教とキリスト教をすり替える目的ではじめられた組織だと知っているので、そのような組織でどのような議論がされたとしてもまったく気にかけていません。

キリストの業をおこない、今もイエスの御名によって盲人の目を開いたりしている人たちがいます。聖書にある通り、手をかざして病人を癒すための「器」としてイエスの業を奏でている人々と、教会やら会議室に座って、会議ばかりしている人たちと、どちらを信頼するべきか、などと、小学生でもわかることだと思います。

しかし、御心に適う宣教をしているかというのは、常に真摯に吟味しなくてはいけないと思っています。ですから、指摘のコメントも含めて、全部、ある権威ある先生にアドバイスを尋ねました。

すると
「まず、これらの人々(コメントをした人々)は教会組織が会議で異端指定したからそれが正しいに決まっているという考えを捨てなくてはいけない。プロテスタントも初めは異端と呼ばれたのだから、とんでもない自己矛盾に陥ることに気づくべきだ。時代じゃない云々はまったくのナンセンス。筆者は歴史の流れを三つのパートに区切っているわけだが、これは見事な事実分類であって、決して神を区切っているわけではない。このレクチャーを聞いた新しい信者たちが直後に、"ということは、聖霊様って、神さまそのもののことなの?”とコメントしたということは、正しい理解に導けたということである。人の言葉による証に惑わされて、神の言に鈍感になっているのだから、コメントをした人々は聖霊を受け取っていないと考えるべき。」・・・と言っていただきました。

パリサイ人の種はまだ生きて膨らんでいっていることが、分かり、本当によかったです。

この後、それでも正しい、もっとわかりやすい表現を与えてくださいと、祈り続けると、聖霊は私に「踊れ」と告げました。
「え?今ですか?」と私、すると「今でしょう(笑)」と聖霊・・・ってなわけで、ひとおどり・・・そこで、ステージの横にいつも置いてある「サイドライト」のことを思い出したのです。
これです

神様の表れに似ていると思いました。ただ、丸は三つだけ。一つには何も色が入っていません。後の二つの丸には、赤と青のセロハンが貼ってあります。でも、その実態は一つの光です。

聖霊は英語でHoly Ghostとも言います。私たちキリストの弟子は、聖霊を受け取ってこの、Holy Ghostと共に生きています。聖霊は私たちを神のラッパにしてくれます。
神は、私たちに「息吹」を通して、御業を奏でるのです。

私たちこそが、イエスのラッパなんです。銀のラッパなんです。

さて、クリスチャンという言葉なのですが、これは後世になってキリストの弟子たちを指して、人々が作った呼び名です。イエスは一度もこの言葉を使っていません。
イエスは「行ってクリスチャンをつくりなさい」とは言わず「行って弟子をつくりなさい」と言いました。

繰り返します
信じるとは、従うことです。「自分を殺し」「十字架を負って」イエスに従うことです。

イエスを信じない者は、御国に入れないのです。


2017年11月16日木曜日

Kappa Rhythm





子供たちのミュージカル教材は

たいてい自分で作ります。

これも、オリジナルのリトミック

リズムに乗って、基礎英語をマスター!

2017年11月15日水曜日

聖霊の正体

この世を創造された唯一無二 全知全能の神と
人との歴史をみると
それは、三つの部分に分かれます。

Looking at the history between "Almighty, One and Only God" and humans, it is divided in three parts.

さきに第二の時代から
The Second Part of the history.

まず、分かりやすいので、第二の時代が何かを話しましょう。
神は、人間と同じように肉体をもって、処女の胎から生まれてこられました。
It is easier to understand if we begin looking at the second part of the history.
God gained fresh and blood like humans and was born out of a virgin womb.

第二の時代は
The second part of the history is

子なる神の時代
the time of the Son

つまり
in other word 

イエスの時代
the time of Jesus Christ

イエス・キリストは、肉体を得た神の形態です。この時代は33年半続きました。
Jesus Christ is a form of God that is in the fresh and blood and this part of the history lasted for 33 and half year.
この時代については、後でまた触れましょう。
Let's come back to this second part history later.

第一の時代
The first part of the history.

第一の時代は創造の時から、イエス・キリストの誕生までです。
The first part of the history is from the creation till the Birth of Jesus Christ.

第一の時代は
The first part of the history is

父なる神の時代
the time of the Father



第二の時代で予告された第三の時代
The third part had been announced in the second part

それでは、第二の時代に戻りましょう。
OK time to go back to the second part.  
第二の時代の終わりはどのようであったでしょう。
イエスは十字架刑に処せられ、墓に入れられました。そして、三日後によみがえり、40日間、弟子たちの前に現れたり、一緒に過ごしたりなさいました。
Let' look at the end of the second part.
Jesus had been crucified, died, and been enshrined in the tomb.  Three days later, He was Raised from the death and spent 40 days on earth again.

前回の記事の中で、ヨハネによる福音書の御言に触れました。
In my last article, which is unfortunately written only in Japanese and I promise that I will translate it in English before too long, I mentioned the scripture of John 20:22.

ヨハネによる福音書
John
20:22
 22 そして一同に息を吹きかけ、また言われました。「聖霊を受けなさい。 
22 And with that he breathed on them and said, ‘Receive the Holy Spirit. 

イエスの昇天シーンを記した、この一節も見てみましょう。復活して、地上で40日間ほど過ごしたあと、イエスは11人の使徒をつれて、山に登ります。そして、こう言い残すのです。 (使徒は12人でした。イスカリオテのユダはイエスを裏切って、わずかな金銭のために、イエスの身柄を売り渡し、このためにイエスは十字架にかかるのですが、ユダはイエスの処刑の際に自責の念にかられ、自殺します。ですから、この時点では弟子は11人です。このユダの空席はイエスの昇天後、まずステファノによって補充されます。)
Let's look at other scripture, where we can see the scenery when Jesus was raised in heaven.  After His Resurrection, there was this 40 days on earth.  At last, Jesus took His 11 disciples with Him on a mountain and say.

ルカによる福音書
Luke
24:49
 わたしは、父が約束してくださった聖霊をあなたがたに送ります。しかし、聖霊が来て、天からの力で満たしてくださるまでは、都にとどまっていなさい。」
49 I am going to send you what my Father has promised; but stay in the city until you have been clothed with power from on high.’

And this "power" Jesus mentioned is the Holy Spirit.

このように、昇天によって子なる神たるイエスの時代は終わるわけですが、イエスは「聖霊降臨」を予告し、昇天していくわけです。
Thus the second part of the history ends with Jesus's Rising to the Heaven.  Jesus Announced clearly the Advent of the Holy Spirit.

現在に至る第三の時代
It has been the third part of the history

さて、イエスの昇天後、五旬節という祭日がありました。ペンテコステとも呼ばれます。この時のエピソードは、使徒の働き2章1-4に見ることができます。
聖霊が、すさまじい「風」の轟と共に、彼らに下り彼らは、聖霊を受け取ったわけです。
After the raise of Jesus, there was a holiday called Pentecost.  In the Book of Act you can see what happened then.  They received the Holy Ghost (Holy Spirit).

 And suddenly there came a sound from heaven as of a rushing mighty wind, and it filled all the house where they were sitting.
And there appeared unto them cloven tongues like as of fire, and it sat upon each of them.


神と人間の歴史、第三期がここから始まったのです。そして、この時代は現在に至っています。私たちはこの第三の時代を生きているのです。
The third part of the history between God and humans began there.  And this third part has been going on even now.  We are all living in this third part of the history.

第三の時代は
The third part of the history is

聖霊なる神の時代
the time of Holy Spirit

神は、父なる創造主、子なるイエス・キリスト、とその表現方法を変え、今、聖霊として生きておられるのです。聖霊は、キリストを信じ従う者の魂に宿り、この世に働きかけます。クリスチャンとは、「小さなキリスト」という意味ですが、こうやって聖霊を受けることで、神の曲げ物(うつわ)となります。そうやって、神の業を行う「機器」「楽器」となり神の御心を奏でるからこそ、「小さなキリスト」たりえるのです。
There are three Ways that God takes as expressions  Father Creator, Son the Jesus Christ and now He is alive on earth with us as Holy Spirit, or Holy Ghost.  Father exists forever, Jesus as well exist forever so does Holy Spirit.   And Holy Spirit live in the soul of those who believe and obey Jesus Christ.  Through the body of Jesus's followers, Holy Spirit keeps on effecting to the world.  "Christian" means "Little Christ".  By receiving Holy Spirit, one becomes an instrument of God.  Humans become a Holy Horn of God that compose and sound the God's Will.  The Holy Breath becomes music through Christians.  Holy Spirit is a form of God that makes a simple human fresh into a Christian.

このように、父、子、聖霊の神が同等であり、三つで一つの神であることを「三位一体の神」と言います。
This is the explanation of three expression ways of One and Only God.  This is also called as Trinity.

そして、もう一つ大切なことは、第三の時代は永遠には続かず、第四の時代も予告されているということです。
What is important for us to know is that this third part of the history doesn't last forever and the by Jesus Christ, the forth part of the history is already announced.



2017年11月12日日曜日

神の息吹

聖霊って何?

おそらく、父なる全知全能の神についてや
イエスについてよりも
この「聖霊」についての説明が一番難しいのです。

でも、説明が一番難しいからこそ、それが一番大切なんです。


~~~

創世記
Genesis
2:7
やがて、主なる神が人を造る時がきました。まず、地のちりで体を造り上げ、それにいのちの息を吹き込んだのです。そこで人は、生きた人格を持つ者となりました。
 Then the Lord God formed a man[c] from the dust of the ground and breathed into his nostrils the breath of life, and the man became a living being.

ヨハネ
John
20:19-23
同じ日曜日の夕方のことです。弟子たちは、ユダヤ人を恐れて戸にしっかりかぎをかけ、肩を寄せ合うようにして集まっていました。その時、突然イエスが一同の中にお立ちになったのです。「平安があるように。」イエスはまず、こうあいさつされてから、 20 手とわき腹をお見せになりました。主を見た弟子たちの喜びは、どれほどだったでしょう。 21 イエスはもう一度言われました。「平安があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わします。」 22 そして一同に息を吹きかけ、また言われました。「聖霊を受けなさい。 
 On the evening of that first day of the week, when the disciples were together, with the doors locked for fear of the Jewish leaders, Jesus came and stood among them and said, ‘Peace be with you!’ 20 After he said this, he showed them his hands and side. The disciples were overjoyed when they saw the Lord.
21 Again Jesus said, ‘Peace be with you! As the Father has sent me, I am sending you.’ 22 And with that he breathed on them and said, ‘Receive the Holy Spirit. 23 If you forgive anyone’s sins, their sins are forgiven; if you do not forgive them, they are not forgiven.’

使徒の働き
Book of Acts
2:1-2
さて、イエスの死と復活から、七週間が過ぎました。五旬節(ユダヤ教の祭りの一つ)の日のことです。信者たちが一堂に集まっていると、 突然、天からものすごい音がしました。まるで、激しい風が吹きつけるような音です。それが、家全体にごうごうと響き渡ったのです。
When the day of Pentecost came, they were all together in one place. Suddenly a sound like the blowing of a violent wind came from heaven and filled the whole house where they were sitting. 


「神の息吹」が登場するところを一部抜粋しました。
聖霊の正体をお話する前に、欠かせない話題です。
ヨハネの福音書二十章22節にちょろっと登場している、あの「聖霊」です。

そうだ・・・
ヨハネの福音書の第一章1節も大切です。


ヨハネ
John
1:1
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

「言」(ことば)と読みます。
ヨハネは福音書を記すにあたって
彼が「聖書」と信じていた「旧約聖書」の創世記の書き出しに似せて書きました。
そもそも、自分の書いたものが「聖書」と呼ばれるようになるとは思っていなかったと思いますが、ユダヤ教の経典である旧約聖書と似せて書きだしたのには、イエス・キリストがユダヤの神と一体たる「神」であることを、鮮明に証するために、そのようにしたのでしょう。
福音とは、イエスが天地万物を創造した父なる神が、人の肉をもった生命体だということを伝え広めることです。

さて、天地創造の時、神は、ひたすら「言」のみで、天地を創造しました。
「光あれ~」って・・・。
ひたすら、いろいろ「言う」ことで、次から次へと創造されるわけです。
私はコンピューター人間なので、常々おもうのですがこれは、いわゆる「コマンド」ですね。
でも、「言う」「言を放つ」という行為はどういう行為なのでしょうか?

肺で作られた息を、声帯が音にして、脳から発せられた言語情報に合わせて、舌と歯、口腔が調節されて発信されるものですよね。

つまり、情報と息吹が「言」の正体だということです。
つまり、神の息吹とは「神の性質」・・・神性そのものだということです。

創世記の一節を見てみてください。
神は人を泥から作り出すわけですが、そこに、息吹を吹きかけるわけです。
「人になれ」とか「うごけ」とかコマンドで作ったのではなく、息吹を吹きかけたのです。これはつまり、この時、神は自らの神性を、人に授けたということになるのです。

しかし、私たちは、神の「コマンド」に背いた、アダムとエヴァの子孫です。
あの、果物をぱくりとかじった一件で、私たちのDNAの「情報」が書き換えられたのです。

イエスは、この「情報」を再び、神の「情報」に戻すため、「バグ」を修正しに、この世にいらしたのです。

ですから、イエスは壁をすりぬけ(笑)イエスを見捨てた罪悪感に打ちひしがれる弟子たちの前に、ひょいと現れた後、穴の開いた手を見せて「よ!シャローム!(平安あれ)」と言い、そして、彼らに「息吹」を吹きかけます。
この息吹はまさに、天地を創造し、我々人間に神と同じ性質を与えたあの「息吹」です。

その場に居た弟子たちの「情報」はその時点で書き換えられたのです。

そしてさらに、息吹は「ドスン!」と大きく働きます。
それがペンテコステの日の息吹です。大きな音となって信者たちに臨みます。
そうして、このあと、炎の舌となり、彼らに働き、クリスチャンたちは異言(自分の言葉ではない「ことば」のこと)を口走るようになるのです。
こうして、クリスチャンたちは、再び神性を取り戻したわけですが、神性を取り戻したから、聖霊を受け取るようになるのです。

聖書が証しています。
神の息吹とは・・・神の神性そのものであると・・・
さて、それでは、そのあとに来る、聖霊とは・・・それは次回、お話ししましょう。
「そのもの」と「作用」の違いです。

2017年11月5日日曜日

私が「基督教会」を信頼していなかった理由。

歴史を学んだ人なら、きっと今巷で
「キリスト教会」とよばれる
集団、組織に疑いの目を向けるはずです。

原因は
コンスタンティヌス1世です。
彼はキリストが生きていた時代から
300年もあとに生きたローマ皇帝です。
このコンスタンティヌスが
今巷で「キリスト教会」と呼ばれる
組織の基盤を作りました。

彼はクリスチャンですらありませんでした。
それどころか、
ミトラ教という、異教の神を崇拝していたのです。

彼はただ単に、政治的にクリスチャンを利用したかっただけで
ローマでのキリスト信仰を認め、
ローマ市民にクリスチャンに対する迫害を辞めさせる代わりに
キリスト教を組織体制化したのです。

太陽崇拝だったミトラ教ですから
日曜日を「聖なる日」Holy Day→Holidayとしていました。
英語では今も、日曜日はSundayですが、
ローマの公用語だったラテン語から出た言葉を話す国々では
日曜日は今、Domenica, Domingo, など
ラテン語のDomenicus (神の日)という言葉から発展された言葉が
日曜日を意味する言葉になっていますが、
これをそのように呼ぶようにしたのは、コンスタンティヌス帝です。

これは、一見
「コンスタンティヌス帝もキリスト教に傾いていたのではないか?」と
思えるかもしれません。
しかし、ミトラ教徒だったコンスタンティヌス帝がクリスチャンになったのは
なんと
いまわの際
つまり、死の直前だったのです。
そんなギリギリになるまで、頑固にクリスチャンにはならなかったのです。

コンスタンティヌス帝は、キリストが礼拝日を
はっきり指定しなかったのをいいことに
クリスチャンにも自分たちの聖日を守らせようとしたのです。
つまり
ミトラの神とキリストを、すり替えようとしたのです。
キリストが礼拝日を指定しなかったのは、
単に、ユダヤ教の「安息日」を守ることこそが、
キリストの意志だったから・・・
変える必要がないからです。

ヨーロッパに行くと
教会がたくさんありますが、
教会に入り、十字架に向かうと
必ず、東に向かっていることになります。
東は太陽が生まれる方向で
ミトラ教徒にとってとても大切な方角でした。
この建築ルールを定めたのはだれかと言うと
コンスタンティヌス帝です。

ユダヤ人にとって、一日は日没からはじまり
翌日の日没で終わるのです。
聖書に、「~夕となり、朝となった。」とありますが
ユダヤ人は日没から一日が始まるのです。

さて安息日というのは、この世界を創造された神が
七日目に休まれたということに由来します。
一週間は、最初の日昇があった第一日目たる日曜日から始まり
最後の土曜日に終わります。
つまり、安息日とは土曜日のことなんです。
(現代の時間のとらえ方でいくと
金曜日の日没に土曜日がはじまり
土曜日の日没に土曜日が終わり、日曜日が始まるのです)
日本語でも土曜日は「土星」の曜日という表現です。
英語でも土星の曜日を示す Saturdayです。
でも、ラテン語から派生している
イタリア語、スペイン語などの言葉では
Sabato, Sabadoと、土星とは関係ない言葉が曜日を表しています。

しかし、土星は「サタン」
ユダヤ人にとっては「悪魔」を意味しています。
それまで、ローマでは土曜日は
Saturdi (サトゥルディ)土星の曜日 と呼ばれていました。
これを Sabadoに変えたわけですが
ユダヤ人の「安息日」「サバシュ」を尊重したからです。
ご機嫌取りだったのです。

そうやって、サバシュに対しても緩和策をとって
しかしちゃっかり
Holy DayはSoledi(ソレディ 太陽の曜日 日曜日)にし
ミトラ教の風習を優先させました。

クリスマスをミトラ教で最も大切な祭事である
冬至、12月25日にしたのも、コンスタンティヌス帝です。
彼は321年3月7日、日曜を「聖なる日」(ホリデイ=休日)宣言し
安息日を取り消しました。
この時点で、コンスタンティヌスはクリスチャンだったでしょうか?
いいえ。まだ、この時、コンスタンティンヌス帝は
ミトラ教徒です。

つまり、いま巷で
「きりすと教」と呼ばれるもの
「きょうかい」と呼ばれるものの基礎のほとんどをつくったのが
コンスタンティヌス帝です。

神学者ジャン・カルヴァンは
「キリスト教要綱」を著したことで有名ですが
もう一つの著書 「信仰の手引き」のなかで、

従ってこの日(安息日)を迷信的に遵守することは、キリスト者から遠ざけられねばならない。
旧約の安息日は廃止された
ユダヤ人によって守られた日は捨てられた。(それが迷信を駆逐する良策だったからである。)その代わりに、この用のために他の一日が制定されたのである。つまりこれは、教会の秩序と平和とを守り保つために必要である。

と述べています。
カルヴァンはルターに並んで、宗教改革に貢献した人物ではありますが
問題は、どうして安息日が取り消されたかという
歴史的事実を完全に誤解していることです。
彼の言う「教会」というのが
クリスチャンでもない人物によって、政治的便宜で定められたものなのを
彼は全く無視しているのです。
それもそのはずで、カルヴァンが生きていたのは16世紀
つまり、キリストが生きていた時代から、1600年もたっていて、
カトリック教会の成立からも1200年経っているのです。
カトリック教会を改革しているつもりでも、
けっして、その「偶像」から簡単に逃れられないのも
無理はありません。

しかし
私たちは、二千年の時を超える
異教徒の嘘に載せられることなく
ひたすら、キリストを見つめていたいと考えています。

キリストは、創造主であるユダヤの神の真理を
自らの命をもって表された方です。
ですからイエス様にとっても「安息日」は意味のあるものであり
簡単に軽んじられるべきものでは、なかったのです。

キリストが復活なさったのが日曜日だから
というのが、ちまたの「きりすと教徒」の言い分ですが
これこそまさにコンスタンティヌス帝が当時口にした言い訳ですし
それならば、Holiday を日曜日にする以前に、使徒ペテロたちが
日曜に礼拝を切り替えていたはずです。
しかし、キリストの死後、310年もの間
使徒たちを含めて、キリスト教徒はやはり、
サバシュを守っていたのです。
コンスタンティヌスが、曜日の呼び名を変えて
法令化しなくてはならなかったというのが
なによりもの証拠です。
こういうことから、私は
教会という組織が、キリストとつながっているとは考えていませんでした。
とんでもない詐偽に載せられている
二千年もの時を超えて!

・・・そう考えていたのです。
その考えは一年間ほどにわたり、いったん
抑えられ、私は教会へ戻ります。
去年の10月に
息子が遭遇したイジメ事件から始まった一連の事件をきっかけに
どうして、そうしたのか
そして、それからまた、どうして
世俗の教会を離れ
自らの家を「家の教会」としてイエス・キリストに捧げたのか
それが次回の私の証です。

Youtube 作品もぜひごらんください。
https://youtu.be/gyuPMN1PHWM

2017年11月4日土曜日

イエスのライオン

どちらかと言うと、アンチクリスチャンだったはずの
棟方です。
しかし、去年の10月末を発端に息子に起きたイジメがきっかけで
信仰生活に戻り、さらに「本物のクリスチャン」となりました。

この「本物のクリスチャン」についてはまた、改めまして・・・
今は、「家の教会」の長老として、キリストのために
息子と二人
御国の働きを第一義に生活しています。

息子は、学校に行くのをやめ
家庭で学習しています。
周りはみ~んな知らんぷりです。
でも、私たちはキリストにのみ頼る決心をしたのです。

さて、私と息子をキリストの道へいざなってくれた
キリストの弟子 ロバート・クルソン氏が率いる、
クリスチャン・ミニストリー「ライオン・ワーク」のために
テーマ・サインを描きました。
ご覧ください。


2017年7月8日土曜日

Veninseng's Channel "Cooking Carrot Pancakes"



子供たちに英語を教えるのに

私がとても大切にしていることがあります。

それは、

母国語は日本語だということです。

「帰国子女」の出来損ないを作ることは、決して子供たちを明るい未来に導きません。

帰国子女は、日本語の文書作成や、日本の精神の啓蒙にはあまり役に立たない人材です。

インターナショナルはナショナルから始まる。



今回、子供たちは、Carrot Pancakeを作ることに挑戦。

作業中、危険作業以外は日本語禁止

そこで使われた単語はほとんど、自分のものにできました。




2017年6月8日木曜日

登下校ルールの「成文」は「生クリーム」

前回
ちょっと脱線してしまったので、もう少し書きます。

「味噌汁問答」を書いているうちに
ちょっと私も当惑してしまったようです。

味噌汁問答は見習いたい
被害者が「味噌汁のんどけぇぇ」と叫んだので
その背景にある、その子の強さに、
ちょっと感激しています。
かるく、うちの子もそれくらいの返しができるように
なってほしいと思いました。
加害者少年、しっかり おみおつけ を食べて
お味噌の知恵をつけてはいかがでしょうか。
まったく、被害者少年の言う通りです。
人の髪の毛引っ張って脅しをかけるような君は
「味噌汁のんどけ!」

登下校のルールは絶対いるってば
さて、登下校のルールは書いた形で、配布されるべきです。
絶対必要だと思います。
義務化されるべきです。

実は、登下校のルールというのは、
各学校の地域性が鑑みられるべきであるため
各学校の任意に任されています。

地域の特性が鑑みられるべきというのは、
その通り!
間違いないです。
でも、「作らなくてもいい」という前提が存在しているのには
断固反対です。
登下校のルールは、むしろ絶対に成文し、配布され
親と学校が、していいことと、悪いことを
「共通の認識」として確認しなくてはいけません。
親個人の「常識」に依存するなど、
教育のプロがするべきことではありません。
登下校のルールは、絶対作成されるという前提にたって
各地域の特性に合わせ、加減されるべきです。

縮小版「道路交通法」
うちの学校の校則には
登下校のルールは1行だけ。
「広がらないように歩きましょう。」

あれ?
通学路を抜けないようにしましょう・・・は?
走らないようにしましょう・・・は?

登下校の目的は
速やかに学校を目指し、速やかに家を目指すことにあります。
しかし
子供たちは、学校と家を出たら、自分たちの勝手にできる、
と考えています。

各家庭に「道路交通法」の縮小版たる
登下校のルールを配布し
親がきちんと子供に教えるべきです。

ルール成文は生クリーム
亮は、いまだにイジメを受けています。
不当に仲間外れにされ、理不尽な中傷を受けています。
これは、「学校の責任」というよりも
加害者の子供たち個人の倫理観念の問題であり、
むしろ
彼らの親の「知性」の問題です。
子供たちの倫理観念は、時間をかけて教え、
導かれなくてはいけません。
しかし、大人がじっくり教え導いていこうと思っている
この間に
物理的な被害が再発するかもしれないのです。
それだけは、絶対防がなくてはいけません

先ほど、
子供の倫理観念というのは、その子個人と
その親の「知性」の問題だ、と言いました。
つまり、
個人差があるというのが現実である
ということです。
しかしながら・・・

子供の「安全」というのは
万全を期して
実現される
あるいは、実現を目指さなければいけない
社会の最優先事項です。

私が疑問に思っているのは、
この「万全を期して」の部分です。
個人差があるなかで、まんべんなく
実現しなくては成らないのです。

凸凹がある形の悪いスポンジケーキの表面を
平らにするには、泡立てた生クリームを
塗ってから、ナイフで伸ばし塗るのです。


実際に歩いてから任意にしろ!
教育委員会も定期的に、
各公立小学校の
登下校の実態を把握するべきです。
子供たちは、教員や自分の親の目が届くところでは
良い子にできる術をもっています。
だから、面が割れていない(?!)教育委員会の人間が
時々下校時に通学路を歩き
実態を把握するべきです。
教育のプロの目で!

学校の任意に任されているならば
余計に、
その任意に正当性があるかどうかを
確認するべきなのです。

2017年6月7日水曜日

だから、ほんとうに登下校のルール、いらないの?

今日はわけあって、亮を学校まで迎えに行きました。
登下校の通学路を子供たちに交じって
亮と歩きました。

前もそうだったのですが
3mと普通に歩けません。

近畿地方は雨
校門の前で傘でほかの子を殴っていた2年生男子
校舎のなかで、クラスメイトのランドセルをもって引っ張りまわしている2年生女子(この子は以前、亮に鉛筆の先端を突き付けて、「とっとと歩け、刺すぞ」と言った子です)
やっと校門をくぐったら
そこかしこで、子供たちはお互いを叩きあい
道はいっぱいいっぱいに広がり・・・
しばらくして、角を曲がると
3年生が、2年生の髪の毛を引っ張りながら
まるでヤ〇ザのような口調で
「おまえ!図書館の前におったやろぉぉ!」
????
雨の中、傘もささず・・・二人はびしょぬれ
3年生は相当な力で、引っ張っています
ここからは笑い話ですが
髪を引っ張られていた子供は
「味噌汁のんどけぇぇ!」
と言い返してました。

この光景は、普通なのでしょうか???
後半の「味噌汁問答」は
学童のグループです。

女性の社会進出、権利の平等
はたらく女性・・・
良いと思います。
育児は、それに・・・
母親だけが責任を負うべきではありません。
ただ、この光景と
現在の「待機児童問題」が矛盾しているように思えるのは
私だけなのでしょうか?

カナダ人の友人が言いました。
「教師になるには試験があるけど、子供を産み親になるのは、誰でもなれる。」

母親が家にいたところで
専業ママ、専業パパがいたところで、
子供が礼儀作法をわきまえる世の中になるとは
限りません。

うちだって片親家庭です。

ただ、親という「成人」がもう一度
親であることの社会的責任を考え直さなくてはいけない
社会が子供の生きる環境を
見つめ直さなくてはいけない・・・
それけだは、明白なんじゃないの?
って思います。


2017年6月6日火曜日

[マイクラ]やった!カルーアさんのUSJマップに入れてもらえた



カリスマ・マインクラフト・アーティストに

カルーアさんという方がいらっしゃいます。

https://www.youtube.com/channel/UCysgTjkBjC56PmT8k7jtZ0Q

なんと、マイクラでUSJを再現していらっしゃるんです。

マイクラ界で知らない人はいない・・・っていうくらい

有名な方です。

それもそのはず、ご覧ください!この再現力!

私の端末に精密な影モッドが入っていないのが残念((+_+))

影モッドが入ると、もっとリアルな仕上がりのワールドなんです。

ぜひぜひ、ごらんください

二歩下がって、吠える!その2

私が訴えたいのは

「登下校ルール」の成文です。

2016年10月25日からずっと、言い続けてきました。
親の目も、教員の目もなく
子供たちが「丸腰の個人」として社会とかかわらなくてはいけない

それが通学路という空間です。

外敵に襲われることもありました。
(それぞれの犠牲者の方々のご冥福を毎日祈っています)
それでも、子供たちが自分たちで登下校できる・・・
そんな日本社会でありたいのです。

でも今のままでは、外敵だけではなく、お互いに殺しあっています。

架空の権利を過信する子供たち

うちの子のケースもそうですが、
倫太郎君ががいきなり、自分の登校グループに入ってきたのをみて
「前のグループから仲間外れにされた。」
そう感じた3年生の男子が
「俺が言うたる」
つまり、稟議に及ぶわけですが、
警察もそういうように、彼は、
彼なりの正義感があってそうしているのです。
そして、自分はだれかを「制裁する」権利があると考えています。

子供は間違えます。
それが子供の本分であり、知恵の元であり
希望です。

しかし、そこに被害者が発生し
その被害者も、その希望の結果を笑って受け入れられないなら
・・・つまり
赦せないなら

それはもはや、犯罪であり、希望とは真逆の性格を発生させます。

たしかに、子供の権利を尊重することは大切です。
しかし、なんだか、最近の親は、この「子供権利の尊厳」と
「させたい放題」「礼儀作法を教えない」ことを混同しています。
クレヨンしんちゃんの影響も否めません。

ほとんどの親が、礼儀を教えることを躊躇します。
自分も大したことないから・・・というのです。
嘆かわしいことです。
見本になれてないことが多いのは、私も何度も見ました。
子供がいるから、子供に教えないといけないから
手本にならないから・・・
親として礼儀を学ぶ・・・
こういう思考回路は親におきないんですね。
子供の荒々しさ、無作法をにこやかに見逃すことが
寛大で、権利を尊重している親だと、勘違いしているのです。

2017年5月31日水曜日

オニゴは亮抜きで

登場人物
前のエピソード

幼稚園からの通達で、永君と倫太郎君の二人が
他の子を扇動してまで、亮を仲間外れにする傾向がある
ということは、知っていました。

しかし、ある時私の目の前で起こるのです・・・

マジョリティはブイブイ言う
2016年春の小学校入学を控え
2016年1月ごろ身体検査がありました。

息子は幼稚園からかえって私服に着替えてから、小学校に行きました。
でも、うちの幼稚園から私服で行ったのは、息子だったのです。

到着すると、幼稚園の制服を着た永君と倫太郎君が
身体検査会場の前にある、中庭のベンチに立って
「おーい!〇〇幼稚園のやつ集まれ!オニゴするぞ」
と叫んでいました。
まるで犬の「マーキング」行為のように
自分の領域が優位であることを、なんとかして誇示し
自分の居場所を確保しようとしているように見えました。

息子は「僕も行ってくる」
だって、僕もその幼稚園だから・・・
息子は、意気揚々と永君のところに行き
そして
泣きながら帰ってきました。

お前は入れてやらない
「お前は制服を着ていないから、幼稚園の仲間には入れてやらない。」と
言われたのです。
みると、角田恵美さんと、永君のお母さんは、
仲良さそうにおしゃべりに夢中です。

私は亮の手を引いて、怒った顔をして永君と倫太郎君に話しかけました。
「永君、倫太郎君、なんで亮はオニゴ入れてもらえへんの?」
永君は「え?いいよ、来ても。おいで」
なにが、「おいで」やねん!
これは、私の心の声です。

私は「でもさっきは、入れてやらないって言った?」とたずねました。
倫太郎君はうなづきました。
私は「もういい。入れてもらわなくてもいい。でもあんまり、調子乗ったらあかんよ。」
・・・言わずにはいられませんでした。

この時、母親たちに直談判しなかったことを、今でも後悔しています。
こんな中、ついに、息子は、この二人によって、
水風呂に沈められるのです。


次のエピソード

2017年5月30日火曜日

フィジカル・プロテスト

登場人物
前のエピソード

のっぴきならない事件ではありましたが、
私としては、そうやって息子や
ちょっと神経質で口うるさい私がコミュニティにいることで
コミュニティの倫理の質が高まったらいいや、と思い
その後も、角田さんだけでなく、斎藤永君も家に迎えて遊ばせていました。
むしろ、積極的に遊ぶように(今思えば、これが一番の間違えであり、私の傲慢のなせる業だったのです)亮にも促しました。
子供のすることですし、一度や二度の過ちで、コミュニティーとの付き合いを全否定するのは、まだ早いと考えたのです。
私は子供が大好きなので、永君や倫太郎君のことも、可愛く思っていました。
私の怒りの矛先は、むしろ、彼らの母親でだったのですが、そこは、クリスチャンの弱みと言いましょうか・・・「神が赦されているのだから、人は裁いてはいけない」と思ったのです。チャンスは与えられるべきだし、私も乗り越えるべき試練だと思ったのです。

孤立させるのを恐れたのは・・・
ここで申し上げておきたいのですが、倫太郎君の孤立を誰よりも恐れたのは、ほかでもない私です。
亮は、番組を見ていただいてもわかりますが、語彙も豊富で、社交的です。
新築のパームシティの子供たちが小学校にあがったら、パームシティで友達コミュニティの主流を得るのは、亮であるのは一目瞭然でした。
言葉数が少なく、自分の気持ちをうまく言葉で表現できない倫太郎君は、きっとマンションの中で浮いてしまうのでは?と考えました。

ジャイアン化
体の大きい子供たちというのは、本能的に自分が「カワイイ」と、もてはやされる回数が少ないと感じているものです。だから、二つの傾向に分かれると思うのです。やたら、大人に自分が「まだ小さい子供なの~」とアピールするか、自分が子供社会で主導権を握るべく暗躍する・・つまりジャイアン化するか・・・
永君も倫太郎君も、幼稚園で一番背が高い子と、二番目に背が高い子です。
永君は、ジャニーズ事務所が注目するのでは?と思うほど、美男子です。亮が転園してくるまでは、かけっこも早く、振り返って笑えば、そこに女子が群がっていました。サッカーだって一番上手です。
亮は、顔かたちは、残念な感じですし、背も今時の水準では「中の上」です。ただ・・・、まず、幼稚園がキリスト教の幼稚園で、本物のクリスチャンたる亮。必然的に先生は無意識に息子を擁護するでしょうし、少なくとも、子供の目にはそう映ることが多いと思います。そして、息子は体操を習っているので、幼稚園では「側転の亮くん」と呼ばれるほど・・・。体育重視のこの幼稚園では、これも先生が息子をほめる機会が増えてしまうでしょう。走りも早いです。さらに、今のご時世、英語が話せる子供は、多少顔かたちが悪くても、振り返って笑えば、女子が後をついてきている可能性は高いです。
永君が息子を嫌ったのは、おそらくこれが原因です。

だから、私としては、永君をないがしろにはできなかったのです。
なんとか、この三人が友情をはぐくんで「ワンダフル・スリー」じゃないですけど
地域の三アイドルみたいになったらいいんじゃないかな~と思ったのです。

いや・・・甘かったです。

とにかく、二人のジャイアンと、のび太な亮・・・そして
私がドラえもん。
こういう構図が少しずつ出来上がってしまっていました。
いや、亮が本当に「のび太」だったら・・・まだ救いがあったのかもしれません。

かかとおとし事件
ある日、倫太郎君と永君がうちに遊びに来ました。
永君は、一人で亮の部屋でおもちゃで遊びはじめ、
亮と倫太郎君は、ゲームで遊び始めました。
亮がゲームに勝って、倫太郎君は機嫌が悪くなり、
出ていこうと思ったのか、永君のところに行こうと思ったのか、
とにかく、逆に亮たちがいる部屋に行こうと思った永君と
倫太郎君が廊下ですれ違いました。
私も倫太郎君の機嫌が悪かったので気になって、倫太郎君の後を追ったのですが
廊下で、すれ違いざまに、永君のみぞおちを、踵で蹴り落したのです。
私はすぐに、倫太郎君を叱りました。
我が家の屋根の下で、そのようなこと、絶対許しません。
私は、床に膝をついて、倫太郎君の手を握り
目を見て厳しく言いました。
「倫太郎君、おなかには大切なものがいっぱい入ってるの」
倫太郎君は言いました
「大切なものって?」
私「胃とかがね・・・」
倫太郎君「"い"ってなにぃ?」
私はこういうことでは負けません。
とにかく!
自分が気に入らないことがあるからって、人に暴力を奮うなどもってのほか!
と強く言い聞かせました。
すると、倫太郎君は、壁にかかっている時計を指さしました。
もう帰る時間だから帰らせろ、と無言で訴えてきたのです。
私は「何を言ってるねん!自分のしたこと考えや」と言いました。
そしたら、なんと、倫太郎君は、床に座っていた私の脚を蹴ったのです。

フィジカル・プロテスト
倫太郎君は口数が少ないのですが、口が達者ではあるというのは
わかっていただけると思います。
そして勝てないとわかると、フィジカルな形で抗議してくるのです。
子供が何かを恐れ(あるいは、畏れ)服従する気持ちを持つことは
とても大切なことです。
子供に、根拠のない「万能感」を植え付けることと
子供の権利を尊重することは、異質なことです。
最近の子供は、この根拠のない「万能感」に支配されています。
大人は尊敬するに値せず
自分たちのために存在する。
何をしても、言っても許される。
大人に逆らい、礼儀を尽くさない子供が
「媚びない子」「かっこいい子」と評価される風潮の危険性を
私は危惧しています。
「クレヨンしんちゃん」の影響でしょうか・・・
イジメの加害者は、たいていどちらかと言うと「ヒーロー」として
幼少期を過ごします。
いいかげん、社会は気づかなくてはいけないのです。

顔が笑ってるねんって!
倫太郎君を諭していたちょうどその時、角田恵美さん(倫太郎君のお母さん)が迎えに来ました。
私は事情を説明しました。
恵美さんは、やはり満面の笑みで「ごめ~ん、そうなん?倫太郎わかったん?あかんで。」と言いました。
顔が笑ってしまう人って・・・損だなと思いました。

申し訳なさそうな顔が、反省を生むこともある
一年生の終わりに・・・倫太郎君ではないのですが
亮が別のお友達に「好きな女の子の名前をばらされたくなかったら、金を持ってこい」と言われたことがあります。その子のお母さんは謝りに来てくれたのですが、やはり、満面の笑みで「んもう・・・っすいません!うちの子がバカなこと言って・・・」と言いながら近づいてきました。

世のお母さんたち、
嘘でも良いので、申し訳なさそうな顔をつくれるようにしてください。
それで丸く収まることもたくさんあるのです。
儀礼が礼儀を果たすこともあるのです。
ひっくり返るだけなのですから。

パスカルは言いました。(パスカルの原理の、ブレーズ・パスカルは哲学者で、神学者でもあります。)「神を見たことがないから、祈っても仕方がないという人には、祈りの形を教え、とにかく祈らせなさい。おのずと神の存在を見るだろうから」
つまり、入れ物が内容を発生させることもある、ということです。
申し訳なさそうな顔や、態度をとることで、少なくとも
相手の寛容を引き出すタイミングが早まると思います。
そうやって、摩擦を少なくしておけば
コミュニティという「体」が「かゆく」なることもなくなり
かきむしらなくてもよくなります。
つまり、被害が小さくなるのです。

そうするうちに、本当に、何が問題なのかを直視する余裕が生まれるのです。


2017年5月29日月曜日

「大嫌い!」「死んできて」

登場人物はこちら
前のエピソードはこちら

家に時々倫太郎君が遊びに来るようになりました。
しかし、ゲームに負けると
「今のわざとやねん。わざと負けったってん。」と言うのは
むしろカワイイのですが、息子が負けると
「くやしい?くやしいやろ?なぁ、くやしい?」と
繰り返し聞き、「いや、別に?」と答えると
「なんやねんそれ、悔しいって言えや。」と言い、
ついには息子が悔しいというまで、合計11回言っていました。
あまりのくどさに、私も口をはさみ
「負けたって悔しくはないと思うよ。楽しくしたらいいやん。」
といいました。

週に一度、息子はサッカーを習い始めました。
サッカー教室となる公園は家のベランダからよく見えます。
倫太郎君は、サッカーの天才児で、
もっと小さいときから習っているそうです。
亮とは、レベルが違うので、一緒には習っていませんでした。
しかし、毎週水曜日、息子がサッカーを習っているのを
よく見に行っていて、あとから「アドバイス」をいろいろしてくれていたのです。
息子は、もちろん、アドバイスとは受け取っておらず
「ケチをつけられる」と言うのですが
私が「倫太郎君はとてもサッカーが上手だから、親切で言ってるんだよ。」と
息子に刷り込んでいたのです。
やがて、倫太郎君は幼稚園で仲良くしている、永君という男の子と二人で、いっしょに亮のサッカーを見守るようになりました。たいてい、そのまま、公園でサッカー教室のあと、三人で遊ぶという段取りです。
ところが、あるひ、ベランダから見下ろすと、リョウが泣きながら自分のサッカーボールをもって家に向かって歩いているのがわかりました。
その後ろを、100均でよくある、プロペラのおもちゃを手にもって、倫太郎君と永君が、何か叫びながら歩いています。

一人で帰ってきた亮に事情を聞きました。
この話はあとで、永君の母親、倫太郎君の母親たる角田恵美さんをふくめた母親の皆さん立ち合いのもと本人たちにこのようであったと確認をとりました。
幼稚園の先生からもこのようであったと確認されています。
それをそのまま、書きます。

プロペラのおもちゃを永君が持ってきていたので、亮はそれで遊びたかったのです。
亮がサッカーをしている傍らで、倫太郎君と永君はそのプロペラで遊んでいたのですが、終わったら貸してもらって、自分もしたいと亮は思ったのだそうです。
サッカーのレッスンのあと、貸してと言ったのですが、
永君と倫太郎君はサッカーがしたい、と言い出しました。
亮はつい今まで、一時間、たいして好きでもないサッカー(サッカー教室ですから当たり前ですが)をしていたので、「僕はサッカーそんなに好きじゃないんだ」と言うと、「じゃあなんでサッカーボール持ってるねん。」と永君が言い、息子のサッカーボールを取り上げ、車道の方へ投げて「取りに行って車にひかれて死んで」と言いました。
ボールは車道には至らず、近くにポトリと落ちました。
「やめて!」と息子が叫んで取りに行こうとすると、倫太郎君と永君が二人で亮の肩を押し、息子は倫太郎君の脚を蹴りました。
とにかく、亮は怒り心頭に発する中、泣きながらボールを拾い帰ってきました。

この話を聞いている途中で、(私も心中穏やかではありません)
角田さんがうちに来ました。
ドアを開けると「ごめんね~」と言いながら
顔が満面笑顔の角田恵美さんがいます。
私はその場で、そのにやけた顔をパンチしたい衝動に駆られましたが、冷静にドアをあけると、恵美さんの方から「なんかさぁ、倫太郎が亮君とケンカになったって言うねんけど、さっぱり言ってることがわからなくて、亮君に脚蹴られたって言うねん」・・・
つまり、うちに文句を言いに来たのです。
それならば、この真摯とは言い難い態度もわかります。
私は息子から聞いた話を伝え、倫太郎君の目の前で、息子を叱りました。
どんな理由があったにせよ、仕返しはいけないと・・・。
「なんや、そうやったんや~ごめんね、亮君・・・。」恵美さんは言いました。

私は週に一回、家から一時間ほど離れたところに、出向して
仕事をしています。

その曜日は、母が泊りがけで息子の面倒を見ます。
このサッカーボール事件の翌日も、その曜日に当たりました。
夜遅く、家に帰ると、母が怒っていました。
幼稚園の預かり保育に母が迎えに行って、帰ろうとすると、家の前の公園で、倫太郎君と永君が遊んでいたそうです、息子が、母に手を引かれながら「倫太郎君、永君!あとでいっしょにあそぼーーー!」と叫ぶと、永君が大声で「亮大嫌いだから、絶対に遊ばない!」と叫び、倫太郎君がその横で笑っていたそうです。
母が、自分の手の中にある亮の小さな手が震えたのを感じ、不憫に思い、息子に「放っておきなさい。遊ばなくていい。」と言ったそうです。
倫太郎君ってどこの、どういう人なの?と、母は今にも怒鳴り込まんほどの勢いでした。
私も、もう黙ってはいられず、永君のお母様のコンタクトをもっていなかったので、幼稚園に手紙を書きました。もちろん、過日のサッカーボールの事件の詳細も書きました。そして、恵美さんにメールをしました。
「昨日のこともあるし、きっとうちの亮が、そんなことを言われるような何かをしたんだと思います。しっかり教えたいので、亮がいったい何をしたのか、倫太郎君に聞いてもらえる?」・・・と
永君の母親が翌日電話してきました。「え?永君がですか?そんなこと言ったんですか?」と自分の息子のことを「君」付けで呼び続け、会話が進みました。「謝りに行きたいんで、家どこですか?」このセリフは一音一句たがわず、電話で述べられました。
その電話を置いたとき、ちょうど幼稚園から、連絡が来ました。
「実は、幼稚園も気になっていたんです。気づいたのは、この一週間ほどのことなんですが、亮君が近づくと、永君と倫太郎君が周りのお友達に『亮が来たで、無視しろ。無視せんかったら友達やめるぞ』といったり、亮君だけ意図的に鬼ごっこに入れなかったりするので注意したんです。それで、お母さまからうかがった、サッカーボールのことも、そんなことあったの?亮君を二人で肩押して倒したりしたの?って聞いたら、その通りだと認めました。」と幼稚園教諭も言いました。
永君の母親が謝りに来た時、角田恵美さんも同席しました。
そこで過日の「サッカーボールとってきて死んで」事件も話をしました。
どうして、亮を「大嫌い」と言ったり、ボールを取り上げたり、死んでと言ったりするんだ?亮が何かしたのか?と尋ねました。すると永君は「うんち、って言ったから」と言いました。その横で亮が「言ってない」と言いました。永君はうつむいて、私から目をそらしました。
嘘です。でも私は亮を黙らせ、永君に言いました
「亮は永君や倫太郎君に、『ウンチ』って言ったの?」
二人は同時に首を振りました。
「じゃあ、そのために亮を二人で押したり、『大嫌い』って言うのはおかしくない?」
二人はうなずきました。
「嫌いって言うのは仕方ない。でも、みんなまだ年長さんで、小さいから、嫌いと決める前に、好きなところを探してもらえないかな?それで、みんなが3年生とか4年生になったとき、それでも『嫌い』と思ったら、もうお友達してくれなくていい。遠くに離れててくれたらいいから。」と私は言いました。
そして・・・
「亮はおばちゃんにとって、命よりも大切な子供やねん。その子に死んで来いなんて、言うのは許さない。この子が死んだら、おばちゃんも死ぬし、命を懸けて守る。貴方達のお母さんも、貴方達のことを同じように思ってらっしゃるのよ。」と言いました。
その横で、永君のお母さんは涙を流しはじめ
倫太郎君のお母さんは、「亮君偉いな。そんなしっかりいろいろ報告できるんやね。」

・・・・
正直
馬鹿か?お前は????
と思いました。
この言葉の裏には、私がすべてを決めつけていると思っているという本音が潜んでいます。今目の前で、子供たちも認め、幼稚園でも認めているのに、まだ、そうやって逃げおうそうとしているのです。

こういう親がいるから、イジメはなくならないのです。
自分たちの子供をいったい、どんな「淵」に追いやっているのか
信じてやる矛先を間違っていることにも気づかず
子供の無邪気な過ちを、つついている私にこそ
「悪気」があると批難しているのです。

子供たちの二三の言葉から、真実を見抜いてやる理性と知性こそ
親に必要な素養です。

2017年5月24日水曜日

二歩下がって、吠える その1

亮と私が、去年の10月25日以降、
経験しているモラル・ハザードの背景をお話しするため
先日から、100歩後ろに戻って書き始めています。
先日、このマンションへの入居と倫太郎君との出会いを書いて
三歩、進んだ感じです。

ここで、二歩下がって、ちょっと根本的なことを
述べたいと思います。

このブログの購読者が一万人を超しました。
その一万人の方が、
「私の周りでも、よくある!」と感じられたのか
「棟方さんの住んでるところって、ちょっと特殊じゃない?」と
感じられたのか・・・
私にはわかりません。
気づかないだけなのか、本当に棟方の住んでいるこのパームシティが特殊なのか・・・

・・・私は前者だと思って書き続けます。

しかし、決定的に言えることは
息子のような子供が「少数派」と言うことです。
私たち親子のような親子が「少数派」だということが
すべての問題の根本なんです。

礼儀というのは、胎教から仕込むもので
「理」をかぎ分ける感覚を敏感に働かせるように
訓練することから、始まります。
この能力は
誰もが本能の中に持っている、先天的能力です。

しかし、その能力の敏感さに差異があるのは当然で
息子が、特に敏感なのだということも、わかります。
ただ、自分たちが「多数派」だからといって、ふんぞり返り
「少数派」を傷つけるの辞めてもらえませんか?

・・・・これが私の言いたいことなのです。

人を傷つける傾向が「子供なんだから、しかたない」と肯定されて、
しかも、「多数派」だなんて、恐ろしくないですか?
だから、イジメはなくならないんです。
傷ついた方が「神経質なんだ。細かいんだ」と批判され、
社会の隅っこに追いやられる・・・

手をふまれ、蹴られ、水に沈められ、顔をなぐられた息子と、その親である私には権利があります。
自分の子供をきちんと教育しきれていない親に向かって
「ちゃんと、教育してくださいね!」
「ちゃんと、子供の悪意と向き合って、嘘を見抜いてあげてくださいね。」と
改善を要求する権利があるんです。

子供は平気でうそをつきます。
でも、親は、親である以上、それを見抜く能力が要求されているということに
すべての親が気づかなくてはいけないのです。
見抜けず、誰かを傷つけたなら、必死で責任を取る覚悟が、親には必要なんです。

イジメはなくなりません。
それが人の「性(さが)」です。生の心がイジメなどの暴力を引き起こします。
亮だって、その「生の心」から解放された「ブッダ」では、決してありません。
しかし、私は断言しますが、私は亮の行いのすべてに対して、親として
命をかけて責任を負います。

イジメが起きても、それに対して当事者以外のコミュニティメンバーが
どう対処するかによって、イジメのダメージが変わるのです。
イジメは「社会」という「体」に発症する「病」です。
問題は、「体」に「思いやり」という「抗体」が備わっているか・・・
「抗体」を養うために、人は普段から「質の良い食品」を摂取します。
この「質の良い食品」とは、「道徳の知識」です。
歴史は「食品」から「有効栄養素」を手軽にとれるよう「サプリメント」を生み出しています。人は、それでも、「有効栄養素」を摂ろうとはせず、自分の「欲望」を満たすことを優先して「ジャンクフード」を食べるのです。
健全な社会という「体」を「病」から救うためには、どうしたらいいか。
「抗体」が「自己生成」できないとき、どうしますか?
「ワクチン」をつくるでしょう。
私がこのブログを書くのは、この「ワクチン」をつくるため
病原体に犯された生体を取り出し、徹底的に病原体を分析し、培養するためなのです。


2017年5月23日火曜日

手を踏んづけて、よーいどん

{登場人物はこちら}

最近の新築マンションというのは
無機質な「住居」というコンテナーを売るというのではなく
そのなかで営まれる、ライフスタイルを売る・・・
という感覚らしいです。

ちまたでも話題の大手不動産会社のマンションブランド
「パームシティ」のオーナーたちは
そんなわけで、入居前に
5~6のグループに分けて、ホテルのバンケットに集まり
お茶を飲みながら、お互いに挨拶をします。

私、棟方玲宇はシングルマザーで、絵本作家。
当時息子はまだ年中でした。
私の関心ごとは、やはり息子と同年代のお子さんを持つ家庭が
何世帯あるか・・・

やはり、このパーティーで一人出会いました。
それが、別棟ですが、同じ8階に住む
小金大河君と、そのご家族でした。

ここでも気づくべきだったのです・・・

子供たちは、自然とホテル宴会場の端っこに集まり
一緒に遊びはじめ、大河君と亮も早速お互いを見つけて遊んでいたので、
私たち母親もお互いに挨拶しました。
まず、とにかく馴れ馴れしいお母さんでした。
「お母さん(私に対して)、ぜったいオモロイ。わかるわ。オモロイやろ。」
私は、おそらく・・・
オモロイという印象は与えない、と思うのですが、
出会って1分後にこのように言われました。
大河君は、と言えば・・、
一緒に遊んでいる息子へ、大きな声で
「~しろや!」「アホか~やろ」と叫んでいるな・・・と思いつつ
私はその時にも、これが日本の子供の「普通」なのかなと
ちょっとがっかりしたのを覚えています。
私たち親が帰る様子を見せたので、遊びを切り上げた亮の腕をつかみ
「いやだいやだ」とゴネはじめていました。
腕を放そうとしないので、息子は困惑してしまいました。
初対面で言葉が荒くなったり、高圧的になるのは、
体の小さな子供によくある傾向だと思います。
一種の防御反応・・・とでも言いましょうか。
ですから、この時は、気にしないように、息子にも教えました。
息子も普段、楽しければ、決して親がどうしようが、
素直にさっさと片づけるわけではないのですが、
この時から、自分とコミュニケーションの「タイプ」が違うことを
感じ取っていたのでしょう。
やっと帰るのか、とばかりに、大河君に「バイバイ」と言っていました。

とにかく、これが、パームシティの住民の中で出会った
最初の同学年男子だったのですが・・・
私も、できるだけ馴染んで生活していこう
学者風を吹かせるのはやめよう、と
決めていたので、調子を合わせることにしました。
今思えば、小金綾音(大河君の母親)さんも、
すこし固い雰囲気の私を
無理やり「親しみやすい」と信じ込もうとしていたのだと思います。
それが「オモロイ」という言葉に表れているのではないでしょうか。

私と亮は、新居から、2駅しか離れていないところから
引っ越しました。
新居最寄りの幼稚園のバスが出ている範囲だったので
予め、幼稚園は年中の10月に転入しておいたのです。
同じ幼稚園に通う子供のなかで、女子には何人か
パームシティに引っ越す子もいました。
ですから、すでにご近所に知り合いがたくさんいました。
お友達もすでに、たくさんいる、ということです。

一番最初のお友達となった「大河君」は今通っている保育園で
そのまま、卒園まで通うことにしているとのことで・・・
息子には、大河君にお友達をたくさん紹介してあげなきゃね、
と話していました。
入居したら会いましょう!
そう言って、小金家とは別れました。

私と亮が入居したのが、4月の初め・・・
年長さんとしての生活が始まっていました。
新居の目の前にある公園で遊んでいた亮を迎えに行くと
男の子と遊んでいました。
見ると、その子は、息子の手をふんづけていました。
「!」私はびっくりして、「リョリョ!」と声をかけると
その子は、慌てて足を引っ込めました。
見ると、とても背が高く、私は、亮より年上だと思いました。
息子は、踏まれた手をさすりながら私に走り寄ってきて
「倫太郎君だよ。同じ幼稚園の同じクラスなんだ。」と
教えてくれました。
年長になって転入してきたのです。

それが、倫太郎君との出会いです。

私は、息子に
「大丈夫?何して遊んでたの?どうして手を踏まれてたの?」
なにかのごっこ遊びをしていたのか、息子は
遊具に寝そべって、手を倫太郎君に差し伸べるようにしていました。
その手を、立った姿勢だった倫太郎君が踏んでいたのです。
「おしゃべりしてた。」息子は答えました。
「あなた、何かいやなこと言ったんじゃない?だから手を踏まれたんじゃない?」
息子は
「そうなのかな・・・仮面ライダーごっこみたいにしてて、僕やられて倒れてたんだけど、踏まれてたの。攻撃だと思う。倫太郎君も仮面ライダーなんだよ。」
と、答えました。
「あなたも攻撃のとき、叩いたんじゃない?」そう思い、
息子が首を振るのをみるだけで満足しなかった私は、
念のため倫太郎君に尋ねました。
「倫太郎君、リョウに叩かれたりしてない?大丈夫?」
倫太郎君は首を横に振りました。
眉毛がしっかり上がって、口をすぼめています。
自分が被害をこうむっているかを尋ねられているので、
この表情は「しらばっくれている」のではなく、
被害が無いことを示しています。
息子は手を挙げてないのです。
「ごっこ遊びでも、本当に叩いたり、蹴ったり、踏んだりはやめとこうね。」
「また、うちにも遊びにおいでね。」
初めまして、だったので、私はこの時は、そのように言うにとどめました。

本当に、今思えば・・・なのですが
あまり良い出会い方を、どの子ともしていないなぁ、と思います。
この時私が、しっかり気づいていれば・・・
今の状態はなかったと思います。

息子とほかの子供のコミュニケーション方法や
倫理基準が違うのは
一重に息子には「キリスト教」という原理原則があり
また、どちらかと言うと、台湾式の育児をしているからなのであって
私があまり、うるさく言わなければ、
協調していけると思っていたのです。
私が神経質なだけで、これが日本の子供たちには普通なんだ
と、考えていたのです。

土台、きっと無理な話だったのでしょう。


入居してから、倫太郎君とは同じ幼稚園のお友達ということで
お付き合いが始まりましたが
逆に大河君とは疎遠に一年間過ごしました。
男子同学年が倫太郎君、大河君のほかにどれだけいるのかも、
よくわかりませんでした。
そんな、一年間でしたので
亮は倫太郎君と主に遊んで過ごすことになるのです。

息子と私のパームシティの悪夢
イジメにつながっていく不協和音は
こうやって、倫太郎君が、息子の手をふんづけて
始まったのです。

次のエピソード

2017年5月18日木曜日

登場人物

「パームシティの悪夢」登場人物
(すべて仮名)
<亮と同じ学年の子供たちとその母親>
〇角田家 パームシティ10階
 母親:角田恵美(すみためぐみ)
 息子:角田倫太郎(すみたりんたろう)
    亮とは同じ幼稚園。
    
〇国松家 パームシティ 9階
 母親:国松早苗(くにまつともえ)OL
 息子:国松瑛斗(くにまつえいと)
    亮と一年生で同じクラス。

    
〇本木家 パームシティ8階
 母親:本木美智子(もときみちこ)神戸元町にある高級料亭の女将。
 息子:本木雄二(もときゆうじ)
    棟方家と同じ階に住む。

〇小金家 パームシティ8階
 母親:小金綾音(こがねあやね)
 息子:小金大河(こがねたいが)
    棟方家と同じ階に住む。
    入居以前に
    新築マンションであるパームシティの
    入居者交流会で出会う
    一年生亮と同じクラス

〇大川家 パームシティ7階
 母親:大川由紀子(おおかわゆきこ)
 息子:大川翔太(おおかわしょうた)

後に上のメンバー全員がイジメや不当行為の加害者になる。

〇元山家 向かいのマンション住民
 息子:元山雄太(もとやまゆうた)
    亮と共に、パームシティの子供たちの暴言の犠牲になる。
〇斎藤家 向かいのマンション住民
 息子:斎藤永(さいとうえい)
    亮と倫太郎君と同じ幼稚園

<亮と同じ学年女子>
〇梨菜(リナ)

<東山吹小学校>
〇三谷将(みたにまさる)校長
〇鳥居朝子(とりいあさこ)一年生のとき亮の担任
〇近江康子(おおみやすこ)一年生のとき亮の隣のクラスの担任

    

2017年5月17日水曜日

執筆宣言

書きます

二年前から始まり、その後「いじめ」につながった
私たちのエピソードを順を追って、書くことにしました。

これは、少し横暴な言い方をしますが
私がまとめた、同じマンション内の同学年コミュニティの
結束力を
その私の息子を攻撃するために使っている、母親たち・・・
息子と私を除外した、マンションの同学年コミュニティの今の仲の良さは
他でもない、私がその初めのきっかけを作ったのです。

そして、学校・・・
本当に、学校教育は、こんなことではいけない!
少子化(私は少子化を問題にするのは愚の骨頂だと、思っています)
少子化だからこそ、教育の質は上がらなくてはいけないのです。

闇に潜む「餓鬼」を照らし出す。
神戸には陰湿な事件が多く発生しています。
私と息子が遭遇した事件を通して
その根本にある「闇」「鬼」に光を当て
本当に「イジメ」のない社会
いえ
「イジメ」と向き合い、赦しを見いだせる社会の
礎になってくれたら・・・
そう思います。

また、このイジメ事件の末、私は、
ある決心をするのですが、その決心にいたるまでの経緯を
記しておきたいと思います。

泣き寝入りしない。
そして、イジメに苦しむ子供たち、
そのお母さんたち・・・
「泣き寝入りするのはやめましょう。」
「一緒に闘いましょう。」

私たちが声を上げることが、
日本の教育(世界でも最悪水準)を
変えるきっかけを作るんです。

イジメをしている子供の母親も
目覚めなくてはいけないと思います。
イジメをしている子供たちも
大切な宝物なんです。

仮名で執筆します。
書くにあたって、登場人物関係者の名前を
・・・・


そのまま書くわけにもいきませんから、
仮名で書きます。
私は絵本作家でペンネームがありますし
息子は「英語ミュージカルYoutuber」リョリョ(Ryo)で
ブロキャしてますので、仮名ですが
顔は出してます。
私たちは、まがいなりにも「告発者」ですから、
それくらいのリスクは負うつもりです。

私は
棟方玲宇(むなかたれい)です。
 絵本作家で、英語と日本語で楽しむバイリンガル絵本や
 動画絵本を作っています。
 実は、人生の中で、絵が描けたことはありません。
 5か国語を話し、9か国語を翻訳・解析する
 いわゆる・・・マルチリンガルです。
 絵本を創作する傍ら、地域で
 「英語育児サークル」として、
 英語でミュージカルや英語寺子屋を開催しています。
 シングルマザーで、クリスチャンです。

息子は
棟方亮(むなかたりょう)です。
 2017年現在7歳 小学二年生です。
 クリスチャン。
 Youtube番組に取り組んでいます。
 英語を学んでいる姿や、
 生活で英語に親しんでいる姿を、
 番組にしています。
 堂々と歩んでほしくて、Youtubeを積極的に
 するように促しました。


Youtube のリョウ

そのほかの登場人物について・・・
文章の中で「A君」「B君」と出てくると
それだけでややこしくなります。
なので、それぞれ仮名をつけることにします。
登場人物

2017年5月16日火曜日

人を尊重することを、好き嫌いで左右しない子供=光の子供

嫌いな女の子

息子には、大嫌いな女の子がいます。
とにかく、嫌いなのです。
仮に、Rちゃんとしましょう。

一年生の夏ごろのある日、
息子が暗い顔で言いました。
「Rちゃんに謝りたい。」
教室の通路に膝をついて座っていたRちゃん。
「邪魔っ!」と息子はイラっと感じ
わざと、Rちゃんのふくらはぎを踏みつけたのです。

リョウの悪意。そして決心

息子はそのことを悔いて
自分から謝りたいと言ってきたのです。

Rちゃんは、息子の故意に気づいていませんでしたが
息子に謝らせました。
私も謝りました。

その親子とは無事に和解できました。

以来、息子はRちゃんを守ると決心したのです。
大嫌いだけど・・・・

ある日、同じマンションの同学年男子数名に
Rちゃんがキツイことを言われました。
よってたかって・・・Rちゃんはたった一人・・・
息子はRちゃんの手を引いて、
「ほっておいて、帰ろう。」
と逃げたそうです。

嫌うのは勝手。でも・・・
私は息子が幼い時から、言い聞かせています。
「嫌いという『思い』は勝手だよ。
勝手にわいてくるもの。
だから仕方ない。
でも、小さいうちは、嫌いだと決めつけずに
好きなところを見つけていこう。
そうやって、大きくなって
それでも『嫌い』と思ったら・・
離れればいい。
相手に何か言ったり
したり、
そんなことは、しなくてもいい。
ただひたすら、その子から
遠くに居ればいい。」

息子は、そのこともしっかりと、理解していたのでしょう。

人を尊重することを、
好き嫌いで左右しない・・・
大切なことだと思います。
7歳の子供が?!と、いろんな人に言われました。
欧米や、台湾の子供ならば、5歳児でもそれくらいのことは、
心に覚えて、行動に反映させています。




人は知らなくても。
知ってくれている存在を信じて。
人知れず・・・息子は光の子供として、
歩みを進めています。

Rちゃんのお母さんも知りません。
先日、Rちゃんのお母さんは、
まさに、Rちゃんを言い詰めた子供たちのお母さんと
仲良さそうに話していました。
これらの子供たちは、息子をイジメた子供たちで
彼らの母親も、息子に(7歳の息子に対して!)理不尽な嫌がらせを
続けていた母親たちです。

私は一瞬、悔しく思いました。
でも、それは間違っているとすぐに思いました。
息子が「光の子供」として歩んでいけること・・・
それを喜ばなくては!

でも、少しだけ、
物書きである私に許された特権をつかって
自慢させてください・・・

「うちのこ!エラいっ!!!」

そんなリョリョ
イジメの被害を受けながらも
自尊心を大切にしています。
リョリョの光輝く姿を、見てやってください!
人知れず、頑張っている息子を応援してやってください。
https://youtu.be/01ib_HlRoQs


2017年5月6日土曜日

Dragon Den Dera and Two Right Hands



A Mo-Book for children.  Discover the mystery of Chinese letters.

On Youtube.

Free of charge (of course) to watch.

2017年4月28日金曜日

【マイクラ】ファンタジーテクチュアDay2 マグマの近くは宝がいっぱい!



教育って、すべて親子のコミュニケーション(礼)にかかってるんですよね

学校にたよっちゃだめ!

ヴァーチャルな空間でのコミュニケーションを通して

リョリョがリーダーシップ、計画性、協力を学んでいるところを実況しています。


2017年4月19日水曜日

板垣退助の逆手ツッコミ

「田」という文字があります。
これは、もちろん田んぼの姿から来た漢字ですが、
田んぼとは、なんでしょう。
領地です。
自分の勝手が及ぶ範囲です。
そして、自分が責任をとることができる範囲です。
この田んぼを区切ることから、人間社会には法律を成文する必要が出てきたり
社会秩序に、共通認識が存在することの重要性を発生させるのです。

さて、先日、ある中学生が、地下鉄を降りて、
自分がさっきまで乗っていた地下鉄の車両本体をドンドン!と叩いて
電車の発車を遅らせました。
これは、一昔前ではありえないことだったではないでしょうか?
公共の乗り物を叩いて、挙句の果て、その発車時間を遅らせる・・・。
彼らは、公共における自分(自らが負う分:責任)をわきまえてないのです。

我が家では、車に乗りません。
車に乗ることに慣れた子供というものの、成れの果てが、こういう事象です。
「車」という文字は田んぼの両側に車輪がついている姿です。
家という「勝手の及ぶ範囲」から
さらに「移動式」「勝手の及ぶ範囲」にのって、
自分の目的地へ行きます。
責任能力がない子供の目的地とは、たいてい「自分がサービスを受ける場所です」
あるいは、別の「勝手の及ぶ範囲」に行くのです。
このように、最近の子供は、乳幼児期に「公」に触れずに、6,7歳を迎え
一年生になっていきなり!
公道を子供だけで、大人の監視なく歩くのです。
こんな恐ろしいこと、私には到底できません。

息子には「分をわきまえる」
コミュニティに自らが負っている責任を理解することを
なによりも大切に教えていきたいです。
それではじめて「自分」を得るわけですから・・・。
これがなければただの「我」(エゴ)です。
「わがまま」はよくない、と教えない親は、その時点で親じゃないんです。

さて、「自由」という言葉があります。
これは、実はある人物が、人工的に作った言葉です。

その人物とは、あの福沢諭吉です。
ある時、福沢は英語の「Freedom」という言葉に出会います。
しかし、彼は、当時存在していた日本語の言葉の中に、
このFreedomに相当する言葉がないので「自らを由」とするを意味する
「自由」と言う言葉を作るのです。
さて、ここで注目しなくてはいけないのですが「勝手」という言葉は
当時も存在していたということです。
でも、彼はこの「勝手」という言葉と、「Freedom」をイコール=で結ばなかった。
なぜでしょう。
答えは簡単です。
違うからです。
根本的に違うのです。
勝手というのは、手が理性に対して勝利し、意志に関係なく動く様子です。
そこに、人間的な考えや、制御は介在しません。

では・・・「自由」とは・・・
「自らを由とする」と、私はあえて「を」をきちんと間に入れて訳しました。
しかし「みずからよしとする」と読む人もいて、これをとても多くの現代人が
「みずからOKとする」と解釈しています。
全然誤解です。

答えは「由」という言葉に在ります。
「由」とは 理由の「由」です。
先ほどの「田」からチョロっと、線がはみ出ています。
勝手の及ぶ範囲から、その影響力を延長させている様子です。
その影響力の結果から逆さにたどれば、どこの田んぼから出た事柄なのかが明らかにわかる様子なのです。
自分を、ある事柄の、「出発点」にするということです。
当然、「自分が責任を取る範囲」という要素は消えずに残ります。
むしろ、誰が責任を取るのか、はっきりしている状態なのです。

福沢諭吉が生きた明治時代というのは、大政奉還が成就し激動の日本ではありましたが。
身分制度というのは、江戸時代だろうが、明治時代だろうが色濃く存在していたのです。
身分の低い人間は武士も農民も「自分で考えて行動する」などということはありませんでした。
自らの意志で、自らの運命を切り開き、自らの分を得て、それによって起きたことの一切の責任を負う。
これこそが「自由に生きる」です。
意志や意気が介在しまくっています。

先日、PTAの会長なにがし、と話をしましたが、
登下校のルールをしっかり成文させ、各家庭に配って徹底させてほしい。
と、申し立てる私に対して「子供たちが二十歳になって自分で判断したり、考える子供になってほしいので、子供たちの自由を尊重したいのです。」と、成文の必要はまったくないとのこと・・・
子供たちは、というと・・・
登下校の通学路で、幼児をこけさせ、下級生を取り囲み因縁をつけ、お金を要求し、車道にものを投げたり、横断歩道の途中で円陣組んでジャンプ遊び、途中の花壇に落書き・・・
「地域の人に怒られながら大きくなってほしい」というのです。
「先生たちが朝会で言ってくれていると思うので。」

まったく、馬鹿馬鹿しい・・・また、学校に丸投げです。

「自由」という言葉は「勝手」の丁寧語だと思っているのです。
福沢諭吉は今頃、草葉の陰で「ちゃうっちゅーねん!」と逆手ツッコミを入れているはずです。
「自由」というのは、自らの「意志」や「意気」が「生」じゃなく
ちゃんと「考える」ことで「調理」することができる生命体にだけ許された特権なのです。「自らを由」とするには、まず「自」が成立していないといけない、つまり、「自分」を得ていないといけないということです。もっと言えば、コミュニティに自らが負っている責任を受け入れている人間にだけ、許されていることなのです。
あのような状態で、どこが「自分を得ている」と言うのでしょうか?いつ責任をとったのでしょうか?
勝手を放置することが、自由を尊重することになるなら、民主主義なんてクソ喰らえ!
愚民の国で多数決なんて、恐ろしいわい。

「自由」という尊い特権は「生意気」な「我鬼」(がき)には、与えられていないのです。
早い話、(いまさらですが)今の子供は、生意気な餓鬼ばかり。「我鬼」であり「餓鬼」です。「意気」を「調理」されるというのは、心と魂の栄養です。生のまんま放置されるから餓えているのです。育てることは、養うこととは違います。教育とは、どんな形でもいいから「考」というフライパンを持つことを教えることです。
時には、可愛い子供のドス黒い悪意とも向き合うことも大切なんです。


福沢はん、わたくしが代わりに、とっておきの逆手ツッコミ入れときますわ。
「自由と勝手、いっしょにせんとって!」

On the Way to Emmaus





ちょっとイタズラっ子のようなイエスの姿に

底抜けのやさしさを感じます。



英語の聖書では「Foolish」「ばかだな~」とかいうキツイ言葉も使っているのですのですが

これは、きっと紀元33年当時の、イエスたちが話していたヘブライ、ギリシャ語、または(可能性は低いですが)ラテン語の言語文化として、そ~んなキツイ表現ではなかったのではないかと思います。



イエスの処刑後

弟子たちは落胆しきっていて、おそらく離散寸前だったのでしょう。

それもそのはずです

イエスの宣教活動はたった3年

奇跡が嘘だったら、こんなにも短期間であれほどの信者を集められなかったはずです。

イエスを支持する人々の数がおびただしかったから、ユダヤ教の司祭たちは、イエスを処刑しなくてはならなかったのです。

しかし、そんな勢いも、元祖カリスマたるイエスが死んでしまったのだから、終わりです。

この弟子たちがどうしてエマオに行ったのかはわかりませんが、二人が落胆しエルサレムを離れていこうとしていることからも、弟子たちがイエスを失って、信仰指針を失っていることがわかります。2人は、イエスの復活を疑いながら歩いています。



しかしながら、キリストの教えは、ここでは終わらず、イエスの死から1985年たった今も、広がり続けています。



私も、この復活に対して長い間疑問を持っていました。

私が支持したのは、「集団トランス論」です。

イエスの死に大きな衝撃を受けた弟子たちが、イエスの復活という、幻想によって、心理的ストレスを処理した・・・。

長い間そう思っていました。

嘘だとは思っていませんでした。嘘にしては、証言がバラバラすぎます。 イエスの後継者となったペテロは、強い説得力のある男でしたから、そうしようと思えば、弟子全員の証言を操作するなど、容易にできたはずです。

証言がバラバラなのは、周到に用意された嘘なのではなく、各個人が自分が体験したことをそのまま証言したからです。

そして、嘘を裏付ける証人として、女性を登用するなど、ありえないことです。

イエスの復活を最初に目撃したのは、マグダラのマリアをはじめとする、女性たち。当時の女性たちの社会的身分の低さを考えると(発言権など全くなかった)、話の信ぴょう性を立証するキャストとして、女性を選ぶとは、考えられないのです。

ですから、嘘であるということはあり得ません。

だから、私は「集団トランス論」によって、イエスの復活という出来事を処理していました。
しかし、それでは辻褄が合わないのです。

集団トランスというのには、閉鎖された空間、という要素が必要ですが、イエスの死の際、弟子たちはバラバラの場所にいますし、女性たちも別々のところから、イエスの遺体を清めに墓に向かうのです。そして、トマスはイエスの死を目撃していませんが、復活したイエスの体に触れたと証言します。トマスはイエスの死後エルサレムに帰ってくるのです。

イエスの受けた拷問は、それは壮絶なもので、それを目の前で目撃したヨハネや生母マリアが心的ストレスから一種のトランスに陥るのもわかるのですが・・・

弟子たちのほとんどは、イエスの逮捕の時に逃げ出してしまっているのです。

論理的に辻褄が合いません。

そして何よりも、「イエスの復活」を裏付ける証拠は、1985年の時を経てもなお、キリスト教が存続している、という事実です。

このエマオへの道のエピソードが示しているのは、弟子たちは、絶望して離散しようとしていたということです。事実この二人は、エマオで復活のイエスに遭遇したあと、慌ててエルサレムに引き返しています。逮捕の手は、イエスの弟子にまで及ぶ可能性もあり、みんな息をひそめて潜伏していました。この二人はあきらめて、エルサレムから出ようとしていたのに、わざわざ、危険を冒してまでエルサレムに戻っています。

そして、イエスの復活を証言し、弟子たちはそこから、なんと、キリストの教えを広める活動を始めるのです。それで、彼らはどんな得をしたのでしょうか?

大金を得たのですか?

まったくそんなことはありません。それどころか、彼らはさらなる迫害に会い、後継者だったペテロは、逆さ十字架にかかって亡くなります。いったい何の得があって、そんなことをするのでしょうか?

イエスの顕現を見たからこそ、死をも覚悟で宣教したのではないでしょうか。

どの宗教も迫害の経験があります。しかし、布教することで拷問を受けて、自ら死に向かっても布教していったのは、キリスト教だけです。

イエスの顕現が嘘だったり、単なる幻想だったとしたら、人をこれだけのことに駆り立てるには、弱すぎる要素です。


天皇のために、敵機に突っ込んでい行った特攻隊の心理に似ているのでは?と言われる方もおられます。しかし、まったく違うのです。天皇とは地上の権威です。イエスはこの時も虐げられた、大工の息子です。地上の権威というのは、豪華な邸宅だったり、その権威を裏付ける物的要素があります。しかし、イエスはといえば、ロバに乗ってエルサレムに入っていくのです。

十字架という見せしめの刑罰で、両隣を盗人に挟まれ「罪人」として死んだのです。

こんな状況で死んだ人のために、あれだけの人数がトランスに陥り、死をも憶さずその言葉を広めようなどという気にさせるなら・・・イエスという人の「PASSION」に「真実」があるからではないでしょうか。
そして・・・
私たち一人ひとりが、イエスの復活を真実だと証ししているのです。

何の得もしないのに・・・、拷問されて死ぬかもしれないのに、その教えを広めようなどと、貴方ならしますか?

私なら、「惜しい人を亡くしたわ」と気の毒には思っても、せっせと現生の権力にへつらいながら、生きていくでしょう。

それが人というものです。しかし、弟子たちは「宣教」したのです。


今の世の中、もはや奇跡は必要ありません。

そのように備えられたのです。・・・・二千年の時を経て。
私にとって、科学こそ神が与えられた人類最大の「恵」です。論理こそが神が人に与えた最高の「技」です。

奇跡が必要ないのは、私たちのように、「無名の個人」でも、論理的に合理的に考え、自分で判断する・・・つまり「自由」が認められた時代だからです。

これが、真実です。

2017年4月17日月曜日

PtAは解散すべき

亡くなられた レェ・ティ・ニャット・リンさんのご冥福を心からお祈りします。
主が一日も早く、ご遺族の心に平安をもたらされ、御手を働かせ正義が行われますように。

さて、見守り活動という活動は
息子が通う学校も実施している。
しかし、私は一切、活動への参加を拒否しています。

そもそも、日本のPTAはとんでもない「茶番」
仲良しごっこの延長線にあるのです。
まったくその機能を果たしていません。

去年入学してから、たびたび通学時間に通学路を歩くことがありました。
うちの学校だけなのかもしれませんが、それはもう酷い歩行マナーで
横断歩道の真ん中でじゃんけんをしたり
マンションの花壇に落書きをしたり
歩道から車道に、水筒の紐をもって本体を投げたり
鬼ごっこをしながら走るのはいいのですが、後ろ向きに走って
小さなよちよち歩きの2歳児の上に尻もちをついたり・・・

その横で・・・見守り隊の保護者は
いっつもぼ~っと見ているのです。

見守り隊からの報告として
「子供たちは年々挨拶ができなくなっている」
とありました。
何を言ってるんだ・・・と思いました。
「イカノオスシ」を唱えているだけでは、子供たちを守ることはできないのです。

息子の事件も通学路で起きました。
私は登下校のルールをはっきり文章にして、全部の家庭に配り、各家庭でマナーや道路交通法に通じる規律を確認するべきだ、と何度も学校にもPTAにも進言しましたが、PTA会長からはこのように返ってきました。
「二十歳になったときに自分で考えれる大人になってほしいので、私は子供たちに、地域の人に怒られながら大きくなって行ってほしいんです。」
これを、地域の方はこれを聞いてどう思われるでしょうか?
自分の子供を転倒させられた親は?

子供たちは、後ろ向きに走った末起きるリスクの可能性も、それに対し個人が負わなくてはいけない責任も、何も知らないのです。転倒させることは刑事犯罪です。
道や壁や花壇など、外にあるものに落書きをすることに対して負うべき責任も、そこから派生する地域治安へのリスクも知らないのです。落書きも刑事犯罪です。

知らないからしてしまうのです!犯しているのは刑事犯罪なんです。

子供に最低限の礼節を教えもしないで、公道に放ち、教えてやってください!などというのは、ちょっと厚かましいです。
こんな親の集団が、PTAなんです。
ロリコンの会長がいたって、驚くこともありません。

結局、うちの子供の身に起きたことに対しても、PTAも学校も、再発防止のために何もしてくれませんでした。
私は見守りだろうが、一切のPTAの活動への協力を拒否し、息子の安全は自分で確保することにしました。

そもそも、PTAとは「Parents and Teachers Association」の略なのですが、完全に学校はアウェイになり、介入しません。保護者会になってしまっています。
訓練を受けた(という前提が一応ある)プロ集団(であるはずの)たる「T」すなわち「教師」の存在が飛んでしまい、個人の欲求や都合を優先させる「P」すなわち「保護者会」だけが、学校を代表して活動しているのです。
個人情報も垂れ流し状態です。

テレビで「PTAの会長がこんなことをしてしまったのだから、もう誰を信じたらいいかわからない」
そもそも、こんな状態のPtAを信頼することが狂気の沙汰です。
一応、各地方自治体にPTA連が存在し、常駐の職員がいます。でも彼らはいったい、何をして給金を得ているのでしょうか?どのPTAも無法地帯、わがまま放題、やりたい放題のママ友のお茶会になっているのに?
この人達の給金を、教員に回してほしいです。その方がよっぽど子供たちのためになりますって!

もう少し、公の権威で統制される機関であるべきなんです、PTAとは。
リンちゃんの事件も、PTAという組織が公的規制を受ける組織であれば、起きなかったのでは?リンちゃんのご両親がベトナムに帰国する費用を賄うための募金活動を容疑者が保護者会会長としてしていたから、リンちゃんは、容疑者を信頼していたのでは?恩人だと思っていたのではないですか?
もっとPTAという組織に規律と秩序が、示されるべきなんです。

日本公立学校のPTAは
解散し、仕切り直すべきです。
PTAに関連する法律、条令を見直し、
合法的かつ合理的なPTAの規律を作り直さなくてはいけません。
ボランティアの活動であるからこそ、明確なルールと倫理規範が必要なんです。
余談ですが、息子が今行っている学校の組織表に、最も重要なポストとして「男性会長一名」と書いてありました。その下に副会長に相当するポストが「女性会長二名」なんだそうです。今時何を言っているんだか!?

申し訳ない、ありがたい
その遠慮こそが、PTAの堕落と横暴を招いたのだと思います。


2017年4月14日金曜日

PASSION WEEK


レント

想いは二千年の時を経て
なおも赤く燃え続ける
迷子になった幼子を想う
母の想い

あれほどの苦痛
あれほどの屈辱
それは不動の事実

なにが罪なのか・・・
などと問う人の中に
私も在った

例えばある幼子がいて
その子が勝手に居場所を離れ
迷子になれば
血眼になって母は探すだろう。
何時間も探した末に
その子を見つけたら
その母親は、どうするだろうか

頬を打って
いさめない母親がいるなら
それこそ、母親じゃない。
いさめるのはその子の
「勝手」
憎むべきなのは、「勝手」という
サタンによる
思いそのもの
「餓鬼」そのものを打つのだ。

では、頬を打たれた子供はどうするだろう。
母の悲しみに対して
「ごめんなさい」と言わないだろうか?
親ならば、ここで「ごめんなさい」と言わない子の生末を
思い煩わない者はいないはず。
それは、滅びに向かう印だからだ。

キリストは
何の罪も犯していない
むしろ、貧しい人に施し
病を癒し
虐げられた人のそばにいて
愛を語った
ひたすら
愛を語ったのだ。

そして
そのために、十字架に処せられた。
鞭うたれ肉と骨を切り刻まれ
さげすまれ
唾を吐かれ
生母の目前で
手足にくぎを打ち込まれ
死んだ


これは
不動の事実

これを「偽り」だというのは
単に究極に愚かなのなだけだから
人間なみの知性を持てるようになってから
考えればいい
それが死ぬ前に起きることを願えばいい。

しかし
本当の罪は
イエスの死が歴史的事実だと知りながら
どうして?と問わないことだ

人として生まれ
人としての他の動物を超える知性を与えられながら
問うことすらしないこと
それが、本当の罪なのだ

私は苦しみの中に
自分の中にいるイエスと遭遇した
私の頬が打たれたのだ
そう気づいたとき
私は大声で問うた
貴方はどうして、十字架にかかったのですか?
充分逃げられたし
嘘だってつけばいい
なぜ
敢えて十字架の死に向かわれたのですか?

そう問うた時
神は、即座に答えられた
「この瞬間のために・・・」

Ryo Discovers the World 最終回 五妃街と神農街

Rei and Ryo's Taiwan review, the last chapter. 一ヶ月に渡ってお送りした、台湾シリーズの最終回です。