「田」という文字があります。
これは、もちろん田んぼの姿から来た漢字ですが、
田んぼとは、なんでしょう。
領地です。
自分の勝手が及ぶ範囲です。
そして、自分が責任をとることができる範囲です。
この田んぼを区切ることから、人間社会には法律を成文する必要が出てきたり
社会秩序に、共通認識が存在することの重要性を発生させるのです。
さて、先日、ある中学生が、地下鉄を降りて、
自分がさっきまで乗っていた地下鉄の車両本体をドンドン!と叩いて
電車の発車を遅らせました。
これは、一昔前ではありえないことだったではないでしょうか?
公共の乗り物を叩いて、挙句の果て、その発車時間を遅らせる・・・。
彼らは、公共における自分(自らが負う分:責任)をわきまえてないのです。
我が家では、車に乗りません。
車に乗ることに慣れた子供というものの、成れの果てが、こういう事象です。
「車」という文字は田んぼの両側に車輪がついている姿です。
家という「勝手の及ぶ範囲」から
さらに「移動式」「勝手の及ぶ範囲」にのって、
自分の目的地へ行きます。
責任能力がない子供の目的地とは、たいてい「自分がサービスを受ける場所です」
あるいは、別の「勝手の及ぶ範囲」に行くのです。
このように、最近の子供は、乳幼児期に「公」に触れずに、6,7歳を迎え
一年生になっていきなり!
公道を子供だけで、大人の監視なく歩くのです。
こんな恐ろしいこと、私には到底できません。
息子には「分をわきまえる」
コミュニティに自らが負っている責任を理解することを
なによりも大切に教えていきたいです。
それではじめて「自分」を得るわけですから・・・。
これがなければただの「我」(エゴ)です。
「わがまま」はよくない、と教えない親は、その時点で親じゃないんです。
さて、「自由」という言葉があります。
これは、実はある人物が、人工的に作った言葉です。
その人物とは、あの福沢諭吉です。
ある時、福沢は英語の「Freedom」という言葉に出会います。
しかし、彼は、当時存在していた日本語の言葉の中に、
このFreedomに相当する言葉がないので「自らを由」とするを意味する
「自由」と言う言葉を作るのです。
さて、ここで注目しなくてはいけないのですが「勝手」という言葉は
当時も存在していたということです。
でも、彼はこの「勝手」という言葉と、「Freedom」をイコール=で結ばなかった。
なぜでしょう。
答えは簡単です。
違うからです。
根本的に違うのです。
勝手というのは、手が理性に対して勝利し、意志に関係なく動く様子です。
そこに、人間的な考えや、制御は介在しません。
では・・・「自由」とは・・・
「自らを由とする」と、私はあえて「を」をきちんと間に入れて訳しました。
しかし「みずからよしとする」と読む人もいて、これをとても多くの現代人が
「みずからOKとする」と解釈しています。
全然誤解です。
答えは「由」という言葉に在ります。
「由」とは 理由の「由」です。
先ほどの「田」からチョロっと、線がはみ出ています。
勝手の及ぶ範囲から、その影響力を延長させている様子です。
その影響力の結果から逆さにたどれば、どこの田んぼから出た事柄なのかが明らかにわかる様子なのです。
自分を、ある事柄の、「出発点」にするということです。
当然、「自分が責任を取る範囲」という要素は消えずに残ります。
むしろ、誰が責任を取るのか、はっきりしている状態なのです。
福沢諭吉が生きた明治時代というのは、大政奉還が成就し激動の日本ではありましたが。
身分制度というのは、江戸時代だろうが、明治時代だろうが色濃く存在していたのです。
身分の低い人間は武士も農民も「自分で考えて行動する」などということはありませんでした。
自らの意志で、自らの運命を切り開き、自らの分を得て、それによって起きたことの一切の責任を負う。
これこそが「自由に生きる」です。
意志や意気が介在しまくっています。
先日、PTAの会長なにがし、と話をしましたが、
登下校のルールをしっかり成文させ、各家庭に配って徹底させてほしい。
と、申し立てる私に対して「子供たちが二十歳になって自分で判断したり、考える子供になってほしいので、子供たちの自由を尊重したいのです。」と、成文の必要はまったくないとのこと・・・
子供たちは、というと・・・
登下校の通学路で、幼児をこけさせ、下級生を取り囲み因縁をつけ、お金を要求し、車道にものを投げたり、横断歩道の途中で円陣組んでジャンプ遊び、途中の花壇に落書き・・・
「地域の人に怒られながら大きくなってほしい」というのです。
「先生たちが朝会で言ってくれていると思うので。」
まったく、馬鹿馬鹿しい・・・また、学校に丸投げです。
「自由」という言葉は「勝手」の丁寧語だと思っているのです。
福沢諭吉は今頃、草葉の陰で「ちゃうっちゅーねん!」と逆手ツッコミを入れているはずです。
「自由」というのは、自らの「意志」や「意気」が「生」じゃなく
ちゃんと「考える」ことで「調理」することができる生命体にだけ許された特権なのです。「自らを由」とするには、まず「自」が成立していないといけない、つまり、「自分」を得ていないといけないということです。もっと言えば、コミュニティに自らが負っている責任を受け入れている人間にだけ、許されていることなのです。
あのような状態で、どこが「自分を得ている」と言うのでしょうか?いつ責任をとったのでしょうか?
勝手を放置することが、自由を尊重することになるなら、民主主義なんてクソ喰らえ!
愚民の国で多数決なんて、恐ろしいわい。
「自由」という尊い特権は「生意気」な「我鬼」(がき)には、与えられていないのです。
早い話、(いまさらですが)今の子供は、生意気な餓鬼ばかり。「我鬼」であり「餓鬼」です。「意気」を「調理」されるというのは、心と魂の栄養です。生のまんま放置されるから餓えているのです。育てることは、養うこととは違います。教育とは、どんな形でもいいから「考」というフライパンを持つことを教えることです。
時には、可愛い子供のドス黒い悪意とも向き合うことも大切なんです。
福沢はん、わたくしが代わりに、とっておきの逆手ツッコミ入れときますわ。
「自由と勝手、いっしょにせんとって!」
「りんじゅのさと」は絵本作家 棟方玲宇(むなかたれい)のオフィシャル・ウェブサイトです。 「玲樹(りんじゅ)」とは歌人でもある棟方のペンネームです。 Welcome to the official website of Rei Munakata, a children's book creator.
2017年4月19日水曜日
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