まず、私はこの「オーソドックスきょうかい」の組織が、異教徒ミトラ教徒によって、ミトラ教とキリスト教をすり替える目的ではじめられた組織だと知っているので、そのような組織でどのような議論がされたとしてもまったく気にかけていません。
キリストの業をおこない、今もイエスの御名によって盲人の目を開いたりしている人たちがいます。聖書にある通り、手をかざして病人を癒すための「器」としてイエスの業を奏でている人々と、教会やら会議室に座って、会議ばかりしている人たちと、どちらを信頼するべきか、などと、小学生でもわかることだと思います。
しかし、御心に適う宣教をしているかというのは、常に真摯に吟味しなくてはいけないと思っています。ですから、指摘のコメントも含めて、全部、ある権威ある先生にアドバイスを尋ねました。
すると
「まず、これらの人々(コメントをした人々)は教会組織が会議で異端指定したからそれが正しいに決まっているという考えを捨てなくてはいけない。プロテスタントも初めは異端と呼ばれたのだから、とんでもない自己矛盾に陥ることに気づくべきだ。時代じゃない云々はまったくのナンセンス。筆者は歴史の流れを三つのパートに区切っているわけだが、これは見事な事実分類であって、決して神を区切っているわけではない。このレクチャーを聞いた新しい信者たちが直後に、"ということは、聖霊様って、神さまそのもののことなの?”とコメントしたということは、正しい理解に導けたということである。人の言葉による証に惑わされて、神の言に鈍感になっているのだから、コメントをした人々は聖霊を受け取っていないと考えるべき。」・・・と言っていただきました。
パリサイ人の種はまだ生きて膨らんでいっていることが、分かり、本当によかったです。
この後、それでも正しい、もっとわかりやすい表現を与えてくださいと、祈り続けると、聖霊は私に「踊れ」と告げました。
「え?今ですか?」と私、すると「今でしょう(笑)」と聖霊・・・ってなわけで、ひとおどり・・・そこで、ステージの横にいつも置いてある「サイドライト」のことを思い出したのです。
これです
聖霊は英語でHoly Ghostとも言います。私たちキリストの弟子は、聖霊を受け取ってこの、Holy Ghostと共に生きています。聖霊は私たちを神のラッパにしてくれます。
神は、私たちに「息吹」を通して、御業を奏でるのです。
私たちこそが、イエスのラッパなんです。銀のラッパなんです。
さて、クリスチャンという言葉なのですが、これは後世になってキリストの弟子たちを指して、人々が作った呼び名です。イエスは一度もこの言葉を使っていません。
イエスは「行ってクリスチャンをつくりなさい」とは言わず「行って弟子をつくりなさい」と言いました。
繰り返します
信じるとは、従うことです。「自分を殺し」「十字架を負って」イエスに従うことです。
イエスを信じない者は、御国に入れないのです。
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