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2017年5月17日水曜日

執筆宣言

書きます

二年前から始まり、その後「いじめ」につながった
私たちのエピソードを順を追って、書くことにしました。

これは、少し横暴な言い方をしますが
私がまとめた、同じマンション内の同学年コミュニティの
結束力を
その私の息子を攻撃するために使っている、母親たち・・・
息子と私を除外した、マンションの同学年コミュニティの今の仲の良さは
他でもない、私がその初めのきっかけを作ったのです。

そして、学校・・・
本当に、学校教育は、こんなことではいけない!
少子化(私は少子化を問題にするのは愚の骨頂だと、思っています)
少子化だからこそ、教育の質は上がらなくてはいけないのです。

闇に潜む「餓鬼」を照らし出す。
神戸には陰湿な事件が多く発生しています。
私と息子が遭遇した事件を通して
その根本にある「闇」「鬼」に光を当て
本当に「イジメ」のない社会
いえ
「イジメ」と向き合い、赦しを見いだせる社会の
礎になってくれたら・・・
そう思います。

また、このイジメ事件の末、私は、
ある決心をするのですが、その決心にいたるまでの経緯を
記しておきたいと思います。

泣き寝入りしない。
そして、イジメに苦しむ子供たち、
そのお母さんたち・・・
「泣き寝入りするのはやめましょう。」
「一緒に闘いましょう。」

私たちが声を上げることが、
日本の教育(世界でも最悪水準)を
変えるきっかけを作るんです。

イジメをしている子供の母親も
目覚めなくてはいけないと思います。
イジメをしている子供たちも
大切な宝物なんです。

仮名で執筆します。
書くにあたって、登場人物関係者の名前を
・・・・


そのまま書くわけにもいきませんから、
仮名で書きます。
私は絵本作家でペンネームがありますし
息子は「英語ミュージカルYoutuber」リョリョ(Ryo)で
ブロキャしてますので、仮名ですが
顔は出してます。
私たちは、まがいなりにも「告発者」ですから、
それくらいのリスクは負うつもりです。

私は
棟方玲宇(むなかたれい)です。
 絵本作家で、英語と日本語で楽しむバイリンガル絵本や
 動画絵本を作っています。
 実は、人生の中で、絵が描けたことはありません。
 5か国語を話し、9か国語を翻訳・解析する
 いわゆる・・・マルチリンガルです。
 絵本を創作する傍ら、地域で
 「英語育児サークル」として、
 英語でミュージカルや英語寺子屋を開催しています。
 シングルマザーで、クリスチャンです。

息子は
棟方亮(むなかたりょう)です。
 2017年現在7歳 小学二年生です。
 クリスチャン。
 Youtube番組に取り組んでいます。
 英語を学んでいる姿や、
 生活で英語に親しんでいる姿を、
 番組にしています。
 堂々と歩んでほしくて、Youtubeを積極的に
 するように促しました。


Youtube のリョウ

そのほかの登場人物について・・・
文章の中で「A君」「B君」と出てくると
それだけでややこしくなります。
なので、それぞれ仮名をつけることにします。
登場人物

2017年5月16日火曜日

人を尊重することを、好き嫌いで左右しない子供=光の子供

嫌いな女の子

息子には、大嫌いな女の子がいます。
とにかく、嫌いなのです。
仮に、Rちゃんとしましょう。

一年生の夏ごろのある日、
息子が暗い顔で言いました。
「Rちゃんに謝りたい。」
教室の通路に膝をついて座っていたRちゃん。
「邪魔っ!」と息子はイラっと感じ
わざと、Rちゃんのふくらはぎを踏みつけたのです。

リョウの悪意。そして決心

息子はそのことを悔いて
自分から謝りたいと言ってきたのです。

Rちゃんは、息子の故意に気づいていませんでしたが
息子に謝らせました。
私も謝りました。

その親子とは無事に和解できました。

以来、息子はRちゃんを守ると決心したのです。
大嫌いだけど・・・・

ある日、同じマンションの同学年男子数名に
Rちゃんがキツイことを言われました。
よってたかって・・・Rちゃんはたった一人・・・
息子はRちゃんの手を引いて、
「ほっておいて、帰ろう。」
と逃げたそうです。

嫌うのは勝手。でも・・・
私は息子が幼い時から、言い聞かせています。
「嫌いという『思い』は勝手だよ。
勝手にわいてくるもの。
だから仕方ない。
でも、小さいうちは、嫌いだと決めつけずに
好きなところを見つけていこう。
そうやって、大きくなって
それでも『嫌い』と思ったら・・
離れればいい。
相手に何か言ったり
したり、
そんなことは、しなくてもいい。
ただひたすら、その子から
遠くに居ればいい。」

息子は、そのこともしっかりと、理解していたのでしょう。

人を尊重することを、
好き嫌いで左右しない・・・
大切なことだと思います。
7歳の子供が?!と、いろんな人に言われました。
欧米や、台湾の子供ならば、5歳児でもそれくらいのことは、
心に覚えて、行動に反映させています。




人は知らなくても。
知ってくれている存在を信じて。
人知れず・・・息子は光の子供として、
歩みを進めています。

Rちゃんのお母さんも知りません。
先日、Rちゃんのお母さんは、
まさに、Rちゃんを言い詰めた子供たちのお母さんと
仲良さそうに話していました。
これらの子供たちは、息子をイジメた子供たちで
彼らの母親も、息子に(7歳の息子に対して!)理不尽な嫌がらせを
続けていた母親たちです。

私は一瞬、悔しく思いました。
でも、それは間違っているとすぐに思いました。
息子が「光の子供」として歩んでいけること・・・
それを喜ばなくては!

でも、少しだけ、
物書きである私に許された特権をつかって
自慢させてください・・・

「うちのこ!エラいっ!!!」

そんなリョリョ
イジメの被害を受けながらも
自尊心を大切にしています。
リョリョの光輝く姿を、見てやってください!
人知れず、頑張っている息子を応援してやってください。
https://youtu.be/01ib_HlRoQs


2017年4月19日水曜日

板垣退助の逆手ツッコミ

「田」という文字があります。
これは、もちろん田んぼの姿から来た漢字ですが、
田んぼとは、なんでしょう。
領地です。
自分の勝手が及ぶ範囲です。
そして、自分が責任をとることができる範囲です。
この田んぼを区切ることから、人間社会には法律を成文する必要が出てきたり
社会秩序に、共通認識が存在することの重要性を発生させるのです。

さて、先日、ある中学生が、地下鉄を降りて、
自分がさっきまで乗っていた地下鉄の車両本体をドンドン!と叩いて
電車の発車を遅らせました。
これは、一昔前ではありえないことだったではないでしょうか?
公共の乗り物を叩いて、挙句の果て、その発車時間を遅らせる・・・。
彼らは、公共における自分(自らが負う分:責任)をわきまえてないのです。

我が家では、車に乗りません。
車に乗ることに慣れた子供というものの、成れの果てが、こういう事象です。
「車」という文字は田んぼの両側に車輪がついている姿です。
家という「勝手の及ぶ範囲」から
さらに「移動式」「勝手の及ぶ範囲」にのって、
自分の目的地へ行きます。
責任能力がない子供の目的地とは、たいてい「自分がサービスを受ける場所です」
あるいは、別の「勝手の及ぶ範囲」に行くのです。
このように、最近の子供は、乳幼児期に「公」に触れずに、6,7歳を迎え
一年生になっていきなり!
公道を子供だけで、大人の監視なく歩くのです。
こんな恐ろしいこと、私には到底できません。

息子には「分をわきまえる」
コミュニティに自らが負っている責任を理解することを
なによりも大切に教えていきたいです。
それではじめて「自分」を得るわけですから・・・。
これがなければただの「我」(エゴ)です。
「わがまま」はよくない、と教えない親は、その時点で親じゃないんです。

さて、「自由」という言葉があります。
これは、実はある人物が、人工的に作った言葉です。

その人物とは、あの福沢諭吉です。
ある時、福沢は英語の「Freedom」という言葉に出会います。
しかし、彼は、当時存在していた日本語の言葉の中に、
このFreedomに相当する言葉がないので「自らを由」とするを意味する
「自由」と言う言葉を作るのです。
さて、ここで注目しなくてはいけないのですが「勝手」という言葉は
当時も存在していたということです。
でも、彼はこの「勝手」という言葉と、「Freedom」をイコール=で結ばなかった。
なぜでしょう。
答えは簡単です。
違うからです。
根本的に違うのです。
勝手というのは、手が理性に対して勝利し、意志に関係なく動く様子です。
そこに、人間的な考えや、制御は介在しません。

では・・・「自由」とは・・・
「自らを由とする」と、私はあえて「を」をきちんと間に入れて訳しました。
しかし「みずからよしとする」と読む人もいて、これをとても多くの現代人が
「みずからOKとする」と解釈しています。
全然誤解です。

答えは「由」という言葉に在ります。
「由」とは 理由の「由」です。
先ほどの「田」からチョロっと、線がはみ出ています。
勝手の及ぶ範囲から、その影響力を延長させている様子です。
その影響力の結果から逆さにたどれば、どこの田んぼから出た事柄なのかが明らかにわかる様子なのです。
自分を、ある事柄の、「出発点」にするということです。
当然、「自分が責任を取る範囲」という要素は消えずに残ります。
むしろ、誰が責任を取るのか、はっきりしている状態なのです。

福沢諭吉が生きた明治時代というのは、大政奉還が成就し激動の日本ではありましたが。
身分制度というのは、江戸時代だろうが、明治時代だろうが色濃く存在していたのです。
身分の低い人間は武士も農民も「自分で考えて行動する」などということはありませんでした。
自らの意志で、自らの運命を切り開き、自らの分を得て、それによって起きたことの一切の責任を負う。
これこそが「自由に生きる」です。
意志や意気が介在しまくっています。

先日、PTAの会長なにがし、と話をしましたが、
登下校のルールをしっかり成文させ、各家庭に配って徹底させてほしい。
と、申し立てる私に対して「子供たちが二十歳になって自分で判断したり、考える子供になってほしいので、子供たちの自由を尊重したいのです。」と、成文の必要はまったくないとのこと・・・
子供たちは、というと・・・
登下校の通学路で、幼児をこけさせ、下級生を取り囲み因縁をつけ、お金を要求し、車道にものを投げたり、横断歩道の途中で円陣組んでジャンプ遊び、途中の花壇に落書き・・・
「地域の人に怒られながら大きくなってほしい」というのです。
「先生たちが朝会で言ってくれていると思うので。」

まったく、馬鹿馬鹿しい・・・また、学校に丸投げです。

「自由」という言葉は「勝手」の丁寧語だと思っているのです。
福沢諭吉は今頃、草葉の陰で「ちゃうっちゅーねん!」と逆手ツッコミを入れているはずです。
「自由」というのは、自らの「意志」や「意気」が「生」じゃなく
ちゃんと「考える」ことで「調理」することができる生命体にだけ許された特権なのです。「自らを由」とするには、まず「自」が成立していないといけない、つまり、「自分」を得ていないといけないということです。もっと言えば、コミュニティに自らが負っている責任を受け入れている人間にだけ、許されていることなのです。
あのような状態で、どこが「自分を得ている」と言うのでしょうか?いつ責任をとったのでしょうか?
勝手を放置することが、自由を尊重することになるなら、民主主義なんてクソ喰らえ!
愚民の国で多数決なんて、恐ろしいわい。

「自由」という尊い特権は「生意気」な「我鬼」(がき)には、与えられていないのです。
早い話、(いまさらですが)今の子供は、生意気な餓鬼ばかり。「我鬼」であり「餓鬼」です。「意気」を「調理」されるというのは、心と魂の栄養です。生のまんま放置されるから餓えているのです。育てることは、養うこととは違います。教育とは、どんな形でもいいから「考」というフライパンを持つことを教えることです。
時には、可愛い子供のドス黒い悪意とも向き合うことも大切なんです。


福沢はん、わたくしが代わりに、とっておきの逆手ツッコミ入れときますわ。
「自由と勝手、いっしょにせんとって!」

2017年4月17日月曜日

PtAは解散すべき

亡くなられた レェ・ティ・ニャット・リンさんのご冥福を心からお祈りします。
主が一日も早く、ご遺族の心に平安をもたらされ、御手を働かせ正義が行われますように。

さて、見守り活動という活動は
息子が通う学校も実施している。
しかし、私は一切、活動への参加を拒否しています。

そもそも、日本のPTAはとんでもない「茶番」
仲良しごっこの延長線にあるのです。
まったくその機能を果たしていません。

去年入学してから、たびたび通学時間に通学路を歩くことがありました。
うちの学校だけなのかもしれませんが、それはもう酷い歩行マナーで
横断歩道の真ん中でじゃんけんをしたり
マンションの花壇に落書きをしたり
歩道から車道に、水筒の紐をもって本体を投げたり
鬼ごっこをしながら走るのはいいのですが、後ろ向きに走って
小さなよちよち歩きの2歳児の上に尻もちをついたり・・・

その横で・・・見守り隊の保護者は
いっつもぼ~っと見ているのです。

見守り隊からの報告として
「子供たちは年々挨拶ができなくなっている」
とありました。
何を言ってるんだ・・・と思いました。
「イカノオスシ」を唱えているだけでは、子供たちを守ることはできないのです。

息子の事件も通学路で起きました。
私は登下校のルールをはっきり文章にして、全部の家庭に配り、各家庭でマナーや道路交通法に通じる規律を確認するべきだ、と何度も学校にもPTAにも進言しましたが、PTA会長からはこのように返ってきました。
「二十歳になったときに自分で考えれる大人になってほしいので、私は子供たちに、地域の人に怒られながら大きくなって行ってほしいんです。」
これを、地域の方はこれを聞いてどう思われるでしょうか?
自分の子供を転倒させられた親は?

子供たちは、後ろ向きに走った末起きるリスクの可能性も、それに対し個人が負わなくてはいけない責任も、何も知らないのです。転倒させることは刑事犯罪です。
道や壁や花壇など、外にあるものに落書きをすることに対して負うべき責任も、そこから派生する地域治安へのリスクも知らないのです。落書きも刑事犯罪です。

知らないからしてしまうのです!犯しているのは刑事犯罪なんです。

子供に最低限の礼節を教えもしないで、公道に放ち、教えてやってください!などというのは、ちょっと厚かましいです。
こんな親の集団が、PTAなんです。
ロリコンの会長がいたって、驚くこともありません。

結局、うちの子供の身に起きたことに対しても、PTAも学校も、再発防止のために何もしてくれませんでした。
私は見守りだろうが、一切のPTAの活動への協力を拒否し、息子の安全は自分で確保することにしました。

そもそも、PTAとは「Parents and Teachers Association」の略なのですが、完全に学校はアウェイになり、介入しません。保護者会になってしまっています。
訓練を受けた(という前提が一応ある)プロ集団(であるはずの)たる「T」すなわち「教師」の存在が飛んでしまい、個人の欲求や都合を優先させる「P」すなわち「保護者会」だけが、学校を代表して活動しているのです。
個人情報も垂れ流し状態です。

テレビで「PTAの会長がこんなことをしてしまったのだから、もう誰を信じたらいいかわからない」
そもそも、こんな状態のPtAを信頼することが狂気の沙汰です。
一応、各地方自治体にPTA連が存在し、常駐の職員がいます。でも彼らはいったい、何をして給金を得ているのでしょうか?どのPTAも無法地帯、わがまま放題、やりたい放題のママ友のお茶会になっているのに?
この人達の給金を、教員に回してほしいです。その方がよっぽど子供たちのためになりますって!

もう少し、公の権威で統制される機関であるべきなんです、PTAとは。
リンちゃんの事件も、PTAという組織が公的規制を受ける組織であれば、起きなかったのでは?リンちゃんのご両親がベトナムに帰国する費用を賄うための募金活動を容疑者が保護者会会長としてしていたから、リンちゃんは、容疑者を信頼していたのでは?恩人だと思っていたのではないですか?
もっとPTAという組織に規律と秩序が、示されるべきなんです。

日本公立学校のPTAは
解散し、仕切り直すべきです。
PTAに関連する法律、条令を見直し、
合法的かつ合理的なPTAの規律を作り直さなくてはいけません。
ボランティアの活動であるからこそ、明確なルールと倫理規範が必要なんです。
余談ですが、息子が今行っている学校の組織表に、最も重要なポストとして「男性会長一名」と書いてありました。その下に副会長に相当するポストが「女性会長二名」なんだそうです。今時何を言っているんだか!?

申し訳ない、ありがたい
その遠慮こそが、PTAの堕落と横暴を招いたのだと思います。


2017年2月16日木曜日

PTAが変わるべきなのだ!

イジメ・・・
学校が負うべき責任では、ない!

学校の責務は、基本的な学力の教習と、社会性の育成。
つまり、子供達が外面を「発揮」する場。
外面(そとづら)を育てるのは、学校ではなく、家庭なのだ。

子供達の倫理と道徳の教育は、絶対、誰がなんと言おうと、家庭が負うべき責務!

私が怒り苦しむのは
信頼していたからだ。

だから、私は、苦しんでいる。息子が遭遇したイジメ。
確かにステージ0〜ステージ1。
私が求めたのは、
「絶対に、これをステージ2以上にはしないですよ」
という覚悟のジェスチャーだ。
それが、子供を囲む共同体に対する最低限の礼節だ。
なのに、誰一人として、親は誠意を示さないばかりか、
大の大人が7歳の子供を傷つけた。私は苦しんでいる。
どうやったら、彼らを赦すことが出来るのか。
まだ、私にはわからない。
高飛車に哀れめば気が楽。
でもそれが出来ないのは、ひとえに、
私が、いまだに、彼らの子供達をも愛おしく思い、
こないだまで彼らを自分と同じ「プロの親」として信頼していたからだ。

日本人は厚顔無恥
少子化対策はその証拠

WHOは、世界人口が飽和状態にあると警鐘を鳴らしている。しかし、日本人は、たかが年金問題のためだけに「少子化対策」などと言っている。笑止千万だ。厚顔無恥だ。厚かましいにも程がある。馬鹿としか言いようがない。どんなに嫌われようが、怒りをもって私は、叫び続ける。

「産むな、増えるな、道徳を教えられないなら。
産んだなら、命がけでその子を社会に有益な子にしろ!」


保護者会が
ぐーたらやってる場合ではない!

保護者会がPTAの一部として、果たさなければいけないことがある。
日本は陪審員制度を導入し始めた。つまり、保護者会にもできるってことだ。
さて、なにが?
・・・
かつてのように、連絡網は配られなくなった。
子供たちの生活で起こったトラブルについては、
学校が責任を負うのではなくとも、把握はするべき。
責任を負うべきなのは、加害者個人と親なのだけど、
連絡先を知らなければ、学校が介入する以外ないし、
たとえ、知っていても、こういうことは、
「個人間」のケンカや言い合いで終わってしまってはいけない。
加害者は「加害者」となった時点で、違法行為を行っているのだ。
社会的な責任を問わなくてはいけない。
罰則を加えるとか、裁くとか、そういう話ではなく、
痛みを共有し、公正な見解を通して起きた出来事を検証しなくてはいけない。
そうやって、「常識」が形作られる。
個人の名誉はそうやって育まれる。
そもそも
最近の社会的な問題は
個人が名誉とエゴを取り違えているから、起きていることが多いように思う。
昔は、どの国でも、寺や教会が、この役割を担ってきた。
何を担ってきたか・・・
「調停」の役割だ。
現代社会では、それが、地域コミュニティをすっ飛ばして
いきなり、裁判所が行っている。
でも、その前に、共同体が、共通の利益、
つまり、この場合、「子供たちの心身の安全・健康」のために
互いに貢献しあって、調停の役割を果たしてもよいはずだ。

「許しあう場」としての
PTA

以前に、私の別の著作でこう言っている。

戦後80年、学校教育は向上の一途をたどっている。
衰退しているのは、家庭教育だ。

私は、この見解を変えては、決していない。

学校の教師の対応が気に入らない?
私もついこの間、痛いほどそう感じた。
それでも
学校に責任を問うべきではないのだ。
低賃金の激務に、加えて、
トイレで排泄できるようになっただけの子供たちを
押し付けられて、
「よいこに育ててね」などと、割に合わないにもほどがある。
そもそも、学校の質を向上させたいなら、
PTAが連携して、国に予算の改善を強く求め
不適格な人間が、教師という「聖職」に就くことを
防がなくてはいけない。
教師の労働環境を改善し、副担任を雇用するべきだ。
教師という個人のQOLを上げることが、
子供たちへの教育を向上させることは、容易に想像できる。

総務関連の業務の一部を、教師だけでなく
保護者会が担うことで(担うというのは責任を負うということだ!)
教師の業務を軽減するべきだ。
いじめなどの倫理問題については、学校だけでなく
PTAの倫理委員会を設け、保護者会が主導して
「共通の利益」の確立に努め、解決するべきなのだ。
傷ついた側に寄り添うことで、
加害者への寛容を、いち早く引き出すことができるはず。
加害者の受ける痛みにも、寄り添える
そんな保護者会・・・

つまり、親同士が
誠意をもって、
問題を認識しあい
謝罪しあい
そして、
許しあう場、というのは
PTAで設けるべきであるということなのだ。
PTAが「調停」機能をもつことは
それ自体が、国の平和の礎になるのだ。

2016年11月11日金曜日

「なんも考えてない」も立派なモラハラ…たぶんvol.1

どうせ連鎖させるなら、善意を連鎖させたいですよね。
海外生活を経験している人間が
日本で子育てをしていると、本当に、激しいジレンマに襲われる事があります。
信仰心が軽蔑される 日本社会
利己主義と自由が混同される 日本社会
あああ、無理だ…光が見えない。

例えば…これは実際にあった話です。

夏休み中のある日
一年生の息子は、プール開放日に行ったのですが
同学年のお友達に「通学路」を外れて行くように、強要されたのです。
息子は、断固として拒否しました。
通学路、というのは、色んな「負の経験」を経て
様々な考えを反映して、専門家が制定したものです。
不幸にも…、あまりにも不幸にも…、
様々な暴力の犠牲となった命による…
それは「遺品」なのです。
息子は、そう教え込まれているので、断固として通学路を行きました。
この後、息子は、とんでもない仕返しを受けるのですが、
今日はその話は、置いておきましょう。

とにかく、その相手の子の心に
「通学路を外れるのは、別にいいんだよ。」と
正当性を、植え付けたのは
この少年の母親の、考えの足りなさ、だったのです。

別の夏休みの、ある登校日。
その子は時間に遅れ、遅刻しそうになりました。
母親は少年に言いました。「近道を行きなさい。」
近道とは、通学路ではありません。

この時点で、この母親は、道理よりも、エゴを優先させてしまったのです。
子供の、安全を守るために出来た通学路。
最優先されるべき課題なのでは、ないでしょうか?
子供の遅刻、というのは、遠足の集合でもない限り
その子が遅刻して、誰かに迷惑がかかる、ということはありません。
この場合、これもプール開放日
遅刻をしたら、この子自身が
プールで遊ばせてもらえないかもしれない
それだけなのです。
その子が怒れて、終わりです。
あるいは、がっかりして、終わりです。
何を怒られるのかと言うと…段取りの悪さ、あるいは、
義務よりも、個人的欲求を優先させた事、を怒られるのです。
あるいは、一人だけ遅れて入って、皆に注目され
「恥ずかしい思いをする」だけです。
いずれにせよ
遅刻をしてしまうような、要因を作らないことの重要さを学ぶ
まさに、チャンスです。
遅刻なんか、すれば良いんです。
恥をかけばいいんです。
がっかりすればいいんです。
ここで、この恥を恐れて、通学路のルールを破ってしまったら
公共のルールを、個人の勝手な都合で破るってことに他なりません。

より安全と判断されたから、その道が「通学路」に選ばれたのです。
ちょっとした恥を恐れたがゆえの、そのスキに
どんな悪鬼が忍び寄るか、わからなかったのです。
その母親は、子供の安全よりも
子供が恥ずかしい思いをしないこと、を優先させたのです。

学校からは、事前に
夏休み中とはいえ、登校日、プール開放日など
何らかの事情で生徒だけが、登校しなくてはいけない場合、
必ず通学路を通ること
通常の校則を守る事
通達がありました。

これは、学校はどんな事があっても
子供を守りたい
と、考えているという事です。

この母親は、そういう「善意」を循環させることにも
失敗したに過ぎません。

「なんも考えてなかったわー。」

この台詞があまりにも軽々しく
免罪符にでもなったかのように振りかざされている
いまの子育てコミュニティを、稀有しているのは
私だけでしょうか。

いや、コミュニティなんて意識
日本のママのほとんどが、持ってないのでしょう
ましてや、そのコミュニティに自分も責任を負っているなんて
思ってもいないのです

「なんも考えてない」も立派な暴力です。
モラハラです。


こういうママが育てた子供が大きくなって…
自分の子供と一緒に生きて行くのです。
自分の子供だけ、良い人間に育てても、しょうがないんです。

2016年7月4日月曜日

「夜の訪問者」徹底解明! vol.4 ~「慈善」という名の迫害

 グール刑事は今度はバーリング夫人に写真を見せた。しぶしぶ写真に目をやる夫人に、グール刑事は尋ねた。「見覚えは?」
「ないわ。」特権階級の反射神経は健在だった。しかし、パターンは見えている。
 グール刑事は容赦なく、夫人と、またもや名を変えた”エヴァ・スミス”との物語を詳らかにした。

4.「バーリング夫人」の物語

 お金持ちの婦人会が主体となっている慈善団体は、不幸な境遇の女性に支援を行っていた。支援に適うかどうかは、審査によって決まる。
 彼女は、支援をうけたいと申し出て、2週間前の審査会に、現れた。その日はいみじくも、バーリング夫人が議長を務めた日だ。
 はじめは、こともあろうか「バーリング夫人」と名乗った。
 問いつめられて、彼女はその苗字とも無縁で、夫に捨てられたという話も嘘だと言った。

 「でははじめから、やり直しましょう。」

 そう促された彼女は語りだした。
 アリス・グレイと名乗って。
 妊娠しているので支援が必要なのだ…。と。
 「あなたを支援するのは、その子の父親の仕事なのではありませんか?」
 そう冷たく言い放たれて、彼女はか細い声で続けた。
 「父親は、私とは違う階級の人間だが、まだ年若く、酒好きの頼りない人なのです。私の妊娠を知り、彼もお金を持って来てくれたけど、そのお金が盗んで手に入れたものだと知り、断りました。」
 そう告げた、アリスに刺々しくバーリング夫人が言葉を挟んだ。
 「もう嘘はたくさん。あなたのような状況でお金を拒むなんて考えられない。」
 アリスは必死に主張したが、バーリング夫人は冷たく支援申請の却下を言い渡した。
 「その青年を探し出して、結婚し、二人で子供を育てなさい。」
 
 「いかに彼女が追い詰められていたか、あなた達にわかりますか?」
 グール刑事は言い放った。
 妊娠していながらも、自ら命を断つほどに、彼女は絶望していたのだ。
 妊娠というキーワードに反応せずにはいられなかった、ジェラルドは尋ねた。
 「妊娠何ヶ月だったのですか?」
 「3ヶ月だ」
 自分は父親ではない。ジェラルドはにわかに胸をなでおろした。
 バーリング夫人はあくまでも、エヴァが「臆病者」だと罵る一方で、バーリング氏は面目が潰れたことを嘆き、夫婦は互いに、互いがエヴァを助けてやるべきだったと罵り合い始めた。

 グール氏は冷たい視線で、バーリング夫人をみやると、淡々と尋ねた。
 「自分のしたことを後悔していないのですね。」
 「もちろんしていないわ。亡くなったのは残念だけど、私の責任じゃないわ。」

 「では、誰の責任なのです?」

 そのグールの単純な問に夫人は簡潔にきっぱりと言い放った。
 「まず、彼女自身。そして、子供の父親。家柄は良くても酒浸りのようね。追求されるべきよ。公的に強制的に。」
 母親が、決定的な墓穴を掘ろうとしていることに気づき、シーラは慌てた。
 しかし、バーリング夫人は引き下がらなかった。言ってやらなければならない。この身の程知らずの下っ端役人に!
 「私たちに嫌がらせするより、その父親を探し出して吊るし上げるべきよ!警察の職務を果たしなさいな!」

 「お母様、まだわからないの?」
 シーラは苛立って母親を詰った。

 まさにこれこそが、グール氏の来訪をもたらしたのだ。
 グール氏は言わずもがな、「警察の職務」を果たしているに他ならなかったのだ。


 

2016年6月23日木曜日

「夜の訪問者」徹底解明! vol.3 ~儚い幸せの軌跡

 「彼女にとって、うちの家族は疫病神だな」
 そう軽く揶揄しながら、エリック落ち着かない様子で、グール刑事に写真を見せてくれるように頼む「僕はその子になにかしたかな?」と軽口をたたきながら・・・そんなエリックを意味ありげにグール刑事はしばらく凝視し、そのあとで「君は・・・まだだ。」とエリックを突き放した。 エリックは所在なさげにうつむく。
 グールは続けた。

 「高級デパートを追われたあと、エヴァ・スミスの職探しは難航した。何日も空腹と孤独に耐えた。そしてある日、彼女は生き方を変える決意をした。だから名前も変えた。」
 エリックの落ち着きのなさが、頂点に達した。
 「なんて名前に変えたんだ?」
 「デイジー・レントンだ。」
 「何だって?」
 意外にも、そううなったのは、明らかにうろたえていたエリックではなく、ジェラルド・クロフトだった。
 自分のせいで、エヴァ・スミスが自殺したのかもしれないと恐れの中で震えていた、バーニング氏とシーラも、言葉を失った。
 デイジー・レントンと名を変えたエヴァ・スミスと、ジェラルドの間に、なにかあったのだ!
 何かが崩壊する。
 でも何が崩壊するのかがわからない恐怖に、バーニング家は騒然となった。
 知らせを聞いて、バーニング夫人も居間でコーヒーとしゃれこんでいる場合ではなくなり、食堂へ戻ってきた。
 そこではジェラルド・クラフトがまさに、心の奥底に潜んでいた「悪魔」の羽ばたきを解き放たんとしていた。

3.デイジー・レントンの物語

 ジェラルドがデイジー・レントンと出会ったのは、劇場の中にある「バー」である。
 そこは、いわゆる、「あいびき」の場所で、相手を探す者どうしが出会う場所であった。ジェラルドは他意もなく、そこに「ちょっと立ち寄っただけ」だった。
 カウンターの向こうで、美しい娘が、脂ぎった夜会服姿の中年男に言い寄られて困っている。しかも脂ぎった夜会服男は、上院議員だ。ジェラルドは、歩み寄って、その娘が自分の連れで待ち合わせをしていたのだと、一芝居うち、金髪の美しい乙女を救出した。
 何日も食事をしていないという彼女を、レストランで食事に招待し、住むところを追われていることを知ったので、フラットも提供し・・・つまり、彼女を囲い始めたのだ。
 
 「彼女を愛していたのか?」
 グール刑事のその問に、ジェラルドはこう答えた。
 「自分を愛し頼ってきてくれる彼女を、かわいいと思った。どんな男でもそう思うはずだ。」
 優しくされることに慣れていない彼女が戸惑う様子を思い出し、ジェラルドは涙を禁じえなかった。あの可愛い恋人がもうこの世にいない・・・その現実が重く、青年実業家の肩にのしかかった。

 しかし、デイジーとジェラルドの関係はまもなく終わりを告げる。もともと未来はなかったのだ。
 別れを告げる彼に、デイジー・レントンは素直に従った。そして、一年は困らない程度の金をデイジーは受け取り、身を引いた。

 彼女の日記の中で、「私の生涯でこれほど幸せなことはなかった。」と、ジェラルドとの日々について記してあった。
 
 「囲われることが幸せだなんて、その程度の人間だったってことよ。」
 バーニング夫人は鼻を向いて言い放った。
 「あの階級の人間は考えられないことをするものよ。」
 これまでは、この屋根の下では、この言葉の根底にある価値観こそが当たり前だったのに、今では、バーニング夫人はまるで、異星人のように文字通り異色を放っていた。
 その価値観にすがっていられたころの幸せは、もう、ここには存在しないことを、彼女以外の誰もが自覚していた。
 外の空気がすいたいと、食堂を退こうとする、ジェラルドに、シーラは婚約の破棄を言い渡す。しかし、なぜか、ジェラルドは婚約破棄よりも重い現実を背負ったように思えた。。
 不穏な予感にやはり落ち着かないエリックは、もう一度彼女の写真をみたいと申し出るが、グール刑事はやはり、「君はまだだ」と突き放した。いたたまれなくなり、エリックは、たばこを吸いに、食堂から出て行った。
 グール刑事は丸まったエリックの背中を見送ったあと、デイジー・レントンに名をかえたエヴァ・スミスのその後を語った。
 

2016年6月21日火曜日

「夜の訪問者」徹底解明! vol.2 ~連鎖の始まり

2.エヴァ・スミス
 刑事は亡くなった女性の名前を告げた。
 「彼女の名前は・・・エヴァ・スミスでした。」
 その瞬間、バーニング氏の表情が凍り付く。「知らないな。」無駄だと思っても、特権階級の人間の反射能力で、そういわずにはいられなかった。バーニング氏は、上等なマホガニーの椅子にもたれかかる。
 「彼女のことは覚えているはずだ、バーニング氏。2年前、彼女はあなたの工場を解雇されている。」
 グール刑事は彼女の写真をバーニング氏にだけ見せた。
 「父さん、誰の事?僕は知ってる?」反抗的な放蕩息子のエリックの声の中に心配の色が宿っていた。
 「いや、お前が働く前のことだ。」

 エヴァ・スミスは二年前、女性工場労働者たちの賃金が不当に安価であると訴え、ストライキを起こしたのである。
 ああ、あの女だ。バーニング氏の脳裏に可憐な少女の華奢な姿が思い浮かんだ。すらっとした四肢、バラ色の頬と小さな唇。化粧などしなくても華やかな美しさが引き立っていたエヴァの姿は、今でもはっきり思い浮かぶ。
 「バラ色の頬が色あせているじゃないか。」あの時、バーニング氏は、エヴァの頬をそっと撫でて、彼女だけを賃上げしてやるから、他の労働者たちを説得して連れ戻すよう言った。しかし、エヴァは、「賃上げは全員にしていただかなくてはいけないのです。」と、その申し出を突っぱねた。
 「このストライキは一週間ともたないぞ。お前の努力は徒労に終わるだけだ。」
 このバーニング氏の読みは当たった。ストライキの間、無収入だった工場労働者たちは、根負けして、出勤してきた。
 「お前はだめだ。クビだ。」
 ほかの労働者たちといっしょに出勤してきたエヴァに、バーニング氏は解雇通知をした。エヴァは、黙って踵を返し、工場を出て行った。

 「確かに解雇したが、トラブルメーカーを解雇するのは当然のことだ。」
 バーニング氏はパナマの葉巻を、太った指に挟んで、それを振り回してまくし立てた。
 未来の娘婿である、ジェラルドは、クラフト社の跡継ぎとして、すでにその卓越した経営手腕を発揮し、フリーメイスンの会員でもあった。彼は、一級品のウィスキーの入ったグラスを持ち上げて、バーニング氏に同調した。
 若いエリック・バーニングは、さっきまで、安物のたばこをつまんでいた手をポケットに突っ込んで、うつろな声で父親を責める「賃上げをしてやるべきだった。」
 なかなか居間に来ない男性たちを呼びに、長女のシーラが、居間から戻ってくる。
 ただならぬ、雰囲気のなかで、彼女の婚約者であるジェラルドから、グール刑事来訪の理由を告げられる。同じ年頃の女性の身に降りかかった不幸を知り、興味をひかれたシーラは、その場に残る。
 あの忌々しい一週間の魂を引き戻され、お祝い気分を台無しにされたバーニング氏は、腹を立てて、グール刑事に怒鳴る。
 「エヴァを解雇したのは、二年も前の話だ!彼女が自殺したこととは無関係だ。」
 「ええ、まぁ。しかし、不幸の連鎖とでも言いましょうか・・・彼女は日記をつけていましてね、その後の解雇された後のことも書いてありました。」
 シーラが事件に興味を持ったので、バーニング氏は娘を退席させようとするが、グール刑事は、シーラに残るように言う。
 グール刑事は、日記に書かれたエヴァのその後を語った。

 バーニングを解雇されたエヴァはしばらく無職だった。身寄りはおらず、帰る実家もなく下宿暮らしの彼女にとって、無職であるというのは、まさに死活問題だった。
 しかし、ある日、「幸運が降ってきた」と彼女が記すように、彼女は高級デパートに偶然職を得ることになったのである。
 工場とは違って、華やかな物に囲まれて、彼女は懸命に働いた。

 「よかったわ。わたしも、そのデパートならよく行きますのよ。」
 シーラ・バーニングは人の良い笑顔を浮かべて言った。
 「それで、どうなったんですの?」
 「解雇されました。」
 「ほらやっぱり!」我が意を得たりと、バーニング氏とジェラルドは机に手をついた。
「どうせまた、トラブルを起こしたんだろ。ああいう人間はいつもそうやってトラブルを起こすものだ」
「雇い主にとっては、難問ですよ。」
 『雇い主』の立場にある二人は、互いをかばいあうようにうなづく。
 「いえ、トラブルを起こしたのではなく、顧客から、クレームをつけられて解雇されたのです。」
 シーラの声が震える。グールはシーラにエヴァ・スミスの写真を見せる。
 そして、グール刑事に促されるまま、実はその「クレームをつけた客」がまさに自分であり、しかも、母親の嫌味に耐えかねて癇癪を起し、八つ当たりで、そこにいた売り子になんの理由もなく難癖をつけたのだと告白した。支配人に「次、わたくしがこのデパートに来て、まだあの娘がいたら、父に頼んですべての取引を中止するように頼みます。」と言ったのだ。シーラはその後もこの一件を悔いていて、なぜ自分がそのような暴挙に及んだのか、自分でもわからないでいる、と、シーラが言うと、グールが神経質そうな鼻をシーラに向けて、一言つぶやくように言う「嫉妬したからさ。」
 シーラは、自分と違い、外見に恵まれ朗らかな様子のエヴァに嫉妬したのだと、自認した。
 エヴァは、自分のせいで自殺したのかもしれない。
 そう思い、シーラは罪の意識に耐えかねていた。しかし、グール刑事は、つづけて、日記にあったエヴァ・スミスの「その後」を語りだした。

2016年6月20日月曜日

「夜の訪問者」徹底解明! vol.1 ~真実は夜、私を来訪した

書きます
「夜の訪問者」とはJ.B. プリースリー作の戯曲で、原題を"An Inspector Calls" ~ある刑事の来訪~と言います。先日BBCで放送された映像化ドラマによってはじめてこの作品をビジュアルで体感した、ムナカタですが、衝撃的でした。
心臓にバズーカ砲でドッキューンされたカンジでした。

まず、最初に、英国の俳優の力をまざまざと見せつけられたことを、お伝えしたいです。
目線、セリフの抑揚。。。こういうシンプルな構成を持つ作品では、こんなにも役者の能力が如実に問われるものかと感じ入りました。

そして、これは「神」のメッセージだと思い、この作品を徹底解明することを思い立ちました。

ムナカタはいま、小学一年生(2016年現在)の男の子を育てています。
子育て、教育の現場は、哲学者にとって「煉獄」です。
私はしょせん、な~んちゃって哲学者で、タオイストとよばれるのがおこがましく、「タオラー・ママ」と自称しているぐらいですから、煉獄ではなく「砂漠」程度でしょうか。
とにかく、砂漠をさまよう、タオラー・ママたるムナカタにとって、この作品は、いじめがはびこり、子供たちが互いの命を奪う事件すら起きてしまった日本の子育ての現場にあてはめ、砂漠で拾った「コンパス」のようなものに思えました。

とにかく、この砂漠において、「敵」が何なのかをはっきり見た気がしたのです。

だから、物書きとして、母として、
書こうと思います。
私の作風から、このブログにこのドラマのスタイルがそぐわないように思われるかもしれないのですが、それでも、このサスペンスについて書かねばならないと感じるのです。

まずは、この作品の「攻撃力」を実感していただくために、作品の背景やあらすじを書きます。

1.バーニング家の祝宴
1912年4月(第一次世界大戦の二年前)イギリスのブラムリーに住む、中上階級の一家、バーニング家では、一家の長女シーラと、バーニングのライバル会社の御曹司、ジェラルド・クラフトが婚約したため、家族だけでお祝いのディナーを催していた。バーニング氏は、家柄こそ良くないが、織物工業で財産を築き、名門の出で、特権意識の強いシビルを妻にしていた。夫人との結婚に際しては、財産はあっても称号がないため、夫人の実家からは白い目で見られていたバーニング氏であるが、このたび、王室より「ナイト」の称号を戴くこととなったのだ。ライバル社の御曹司と娘の婚約で、競合ではなく、利益共有の道も開け、まさに、世の春を満喫していた。
 ディナーは、バーニング夫妻、長女のシーラとその婚約者のジェラルド・クラフト、そして、シーラの弟で、最近、父親の会社で働きだしたエリックの5人で和やかに行われた。
ディナーの終盤に、コーヒーを飲むため、食堂から今へ移動しようとすると、メイドの一人が、バーニング氏に
「刑事が来ています。"An inspector calls"」と、静かに"グール"~Goole刑事の来訪を告げた。女性二人はそのまま居間へ退き、その場には男たちだけが残った。
 食堂に通されたグール刑事は、長身に黒いコートの地味な外見の男で、物静かだが鋭い眼光で男三人を見回すと、自分は新任の刑事だと言い、来訪の理由を告げた。

 「3時間前、ある女性が自殺しました。」

 その死因についてたずねるため、自分はここに来たのだと・・・。



2016年6月13日月曜日

PTA 解体図

PTAと学校の在り方は
演劇の舞台の様に似ています
そして 演劇の舞台の様は
一輪の花の様に似ています。

息子がいよいよ小学一年生になって
とってもびっくりしたことがあります。

いかに多くの人が、
PTAを「保護者会」と勘違いしていて
PTAの「T」が「Teachers」を指していることを
知らないか!

PTAとは
Parents and Teachers Association
保護者および教員の協会、のことです。

保護者会とは、むしろ、PTAの傘下にあるべき
支部です。

学校ですら、PTAが保護者会と同義語になってしまって
保護者の人々に丸投げになってしまっているのです。

演劇「PTAの花」
茎=学校組織=演出家=芝居の基本的な支持を与えまとめる。
花=保護者=主演俳優=メインとなって演じる
葉=教員=助演俳優=主演俳優を支えながら、演じる
土=教育委員会=スポンサー=「資金」となる「経験」「ノウハウ」を投資する
そして
水=意図・情・タオ
ハチ=生徒たち=子供=花の蜜を吸って、生きる

土たる教育委員会は、様々な人たちの「意図」や「情」を調整して
養分(経験)と共に、茎を通して花へと汲み上げる。

学校組織の介入が乏しいPTAは
花だけが水に浮かんで活けられているのと同じ
麗しくはあっても、蜜は薄く
長持ちはしない。

そうらえそうらえ、大漁なりぃ!






毎年この時期になると
息子が通っている体操教室の「潮干狩り」に
息子は参加します。

去年はあいにくだったのですが
今年は、大漁でした!
アマエビといっしょに、豪勢なディナーです。

去年、しかしながら、あるエピソードがありました。
毎年、あさりの砂抜きのために、海水を持ち帰るので、
子供たちはいつも、500mlの空のペットボトルを持たされます。

先ほども申し上げましたが
去年は一つも採れませんで
体操教室側はきっと、
それなりに「申し訳なく」思ったのでしょう
ペットボトルにおいっぱい、
砂、ヤドカリ、人でがギュウギュウ詰めにされ
息子はそれを持ち帰ってきました
「おせわしゅるの!」と
息子は言いましたが、
ペットボトルのなかで1時間ちかく電車に揺られた
海の命はすでに、息絶えていたのです。

私は、もちろん
体操教室にお願いしました。
「命を粗末にさせないでください」

そして、当然、息子に
このような無用の殺生をしてしまったことの
罪深さを伝えました。

命が命の源になるなら
殺生も致し方ないことと思います。
しかし、ただ、もてあそび殺生することは
それは、傲慢です。

今年、潮干狩りに参加するにあたって
息子は尋ねました
「いいの?あさり、採っても。
食べたら死んじゃうもの」

私はもう一度、「サークル・オブ・ライフ」について
話して聞かせ
有り難く、命を頂戴して
感謝して賢くなりなさい。
そうすれば、アサリの命も贖われる
と、言いました。

帰ってきて、砂抜きされている
ボウルいっぱいのアサリに
息子は「ありがとう、あさりさん」と
言っていました。

ほんとうに、命たち
ありがとう・・・
サガに従い、頂きます。

モンペのよだれ

「モンペ」「モンペ」と呼ばれることを恐れて
まともな親すら縮こまっていますね。

「ミンチュチュギ」の悪循環、勢いよく回っています。

そんなのよくないなぁ~と思い。
タオラー・ママたる私はあることを決心しながら、
ベランダの野菜に水をやっていました。

息子が帰ってきて
床に「地引網」よろしく、ばらまかれた学用品の中から
連絡ファイルを救出し、中身に目を走らせたとたん
また、ため息が…
タオラー・ママのため息です。

学校がプール授業の始まりに先立って
いろんな「あれこれ」を知らせてくる文書の冒頭
「お子様が楽しみにしている、プール授業の時期が…」

「お子様」って…

モンペども、よぉくみろ!
これがお前たちの「よだれ」のあとだ!

本来、学校教諭というのは
「聖職」だ。
四年制大学を修業し、国家試験を受けて獲得する免許
それが、「教員免許」
もちろん、これにもう少し「性格・適性検査」を強化すべき、
とは思いますが
国が認めた技能をもったはずの「先生」たちが
へりくだって…「お子様」と子供たちを称している。

学校はサービス業ではない。
先生たちは子供にとって、目上である。
保護者と同じくらいの、覚悟と意思をもって
子供たちを守るプロフェッショナル。

サービス業者じゃない!
「生徒」でいいのだ。
「生徒」だから「先生」なのだ!

それも、これも
学校を業者と間違えて、自分の都合が悪くなると
文句やら、なんやら喚きたてた「モンペ」が
ぴゃーちゅか、唾を飛ばしてきた結果だ。

んも~きたないっ!


2016年4月3日日曜日

真珠蛍と億千万の星・・・育児ウツと「付き合う」~棟方の場合

映画の「おかし」

子供と映画に行くのが好きです。
子供の映画には全く興味がありません。
映画そのものはほとんど見ていません。

1800円の入場料で私が得るもの
それは、「真珠蛍と億千万の星」です

億千万の星
映画館の照明が落ちると
私はすぐに、傍らに目をやります。
すると、暗闇の中、
蛍のようにぽっと、子供のほっぺに真珠色の明かりが灯り
真珠蛍が姿を見せます。
そして
息子は、つぶらな瞳に億千万の星を携えるのです。
怖くて、私の手を握る小さな手には、汗がにじみ
感動すると、億千万の星から、小さな流れ星が流れ落ちます。

世界中のどんな絶景でも
この風景に勝るものはありません。


棟方という星とウツという星
ところで、棟方は時々ウツになります。
育児をするほとんどのママが、ウツに陥った経験があり
多かれ少なかれ、その「病」を持て余しているのではないでしょうか。
病と認識なさっておらず
ただご自分が至らないから、あるいは、気分の問題だと
思っていらっしゃるかもしれません。
棟方にとってウツとの関係は・・・・
「二つの衛星」です
自分という星がたどっている軌道と
別の軌道に「ウツ」星がめぐっていて
二つの軌道は時々合わさってしまって、
しばらくの間、付き合わなくてはいけないのです。

自分だけではない・・・でも我慢しなくてもいい
日本人の女性には
「子育てに悩んでいるのは自分だけではない」
と感じておられる方が多いようです。
この感覚は、とても知性にあふれ、健気な感覚です。
その通りなのです。
でも、それが、甘んじて耐えなくてはならないというわけではない
棟方は、そう考えます。

ここで耐えることは決して健気ではありませんし
賢くもありません。

「痛み」を経験することで得られる最大の宝は
他人と共感し思いやる力です。
これは「母」という生命体にとって
もっとも強い能力なのです。

自分の「痛み」に耐えてしまって
ましてや、やり過ごしてしまったら
同じ悩みを持つ人にも、その対応を期待してしまうでしょう。
「私は耐えたんだ。だから、貴方もこの重圧に耐えられるはず」
そして、助けを求めている人に手を差し伸べないでしょう。
さらに、自分を取り巻く他人の存在価値を
自ら下げることなんです。

困難におちいったなら、助けを求める義務がある
世の中にこれだけたくさんの人が
(あまりにもたくさんの人が)
存在するのは、互いの不足を補いあい
助け合うためにほかなりません。
たった一人で、痛みに耐えることは
その自然の条理に逆らうことです。

痛いのならば泣かなくてはならない。

私はいつも、そう子供に言います。

痛いのに泣かずに我慢して
周囲の人に、傷を気づいてもらえず
そのままその傷が化膿しても
それは誰のせいなのでしょう?
また、その膿んだ傷に蛆がわき
その虫が周囲の人々の生活を脅かすことになったら
それは、
誰のせいなのでしょう?

痛いなら、そのことを素直に訴えなくてはいけません。
自分の弱さを受け入れ、
他人に理解してもらいたい、と
発信しなくてはいけないのです。
「礼」この文字は
直訳すると「Politeness」"丁寧"さと訳しがちですが
実は「Communication」"コミュニケーション"という意味あいの方が強いのです。

他人の中の自分を自覚し
「礼」を尽くさなくてはいけません。
自分の弱さに気づいたなら
他人からの恩義を受けなくてはいけません。
それが、一人では生きていけない
「人」といいものに生まれ落ちた
私たちの義務です。

助けを求めないのは「無礼」である
先日、棟方を巻き込んで子供関連のトラブルを起こした
あるお母さまが、言いました。
「長い間誰にも言っていないけれど
実は自分はウツなのだ。
でも薬漬けにされたくないから
病院には行かない」

ウツを理由に自分の粗相を許してもらいたいなら
せめて、治療に努力する姿勢を示すのが礼儀です。
とんだ勘違いです。

ウツの治療薬
このエッセイの前半のノリだと
ウツの一番の治療薬は
「子供の笑顔だ」
となると期待されていたと思いますが
子供の笑顔には癒されますが
ウツを解消する特効薬ではありません。

ウツを解消する特効薬は
「感謝」の気持ちです。

棟方はシングルマザーで
夫と離婚し
夫に対して悶悶と恨みつらみをもったまま
二年ほど子育てをしていました。
貧困にあえぎ
こんな状況に追いやった元夫を恨みました。
子供を元夫のような人間には絶対にしない!
それが私の永遠のテーマです。

子供が少し大きくなって、映画が見れるようになりました。
私は貧困のなか、一生懸命、映画の券を買い
子供を映画へ連れていきました。
「仮面ライダー」の映画です。

初めての大画面
おなかにズンとくる重低音
3歳のちびっこにとって、それは
まさに、大興奮の経験だったのでしょう。
私は、そのとき、初めて
「真珠蛍と億千万の星」を目にしました。

私にとっての最大のストレスは
息子の言動の中に
元夫のカゲを見ることです。
たちまち、私の軌道に、ウツの軌道が添ってきてしまいます。

さて・・・・文章が長くなってきましたので
この続きは
また今度

2016年2月17日水曜日

妖怪「大丈夫」と妖怪「無意味なんで?」 見逃さないっ!

母「そっちいったらだめ、あぶないから」
子「だいじょぉぶ、だいじょぉぶ」

母「そんなことしたら、お友達が傷つくでしょう?」
子「なんで?どこが?なにが?」

ある、ある、ある!
いくらかわいい我が子でも
むっかぁぁ!とキます。

棟方玲宇の戯曲「四葉亭の一日」より



ヨソの子だったら、容赦なくその場で
シャッターが下りるかもですね(笑)

子供の自尊心が発達した証拠なんですが
自尊心と自信の発達を喜んでばかりもいられません。

子供の情緒の発達には必ず
倫理という「枠」が必要です。

子供の情緒が発達する様は
真っ白なキャンバスに
様々な絵が加わる様に似ています
本当にいろんな色が 
こっちにぺちゃり
あっちにぺちゃり

棟方玲宇の戯曲「四葉亭の一日」より

でも、キャンバスではなく机にもぺちゃり
床にもぺちゃり
そうなると、「情緒の発達」という「お絵かき」は
ただの迷惑な落書きです。

キャンバスだけの絵もシャレオツなものです。
けど・・・
そこに「額」フレームがつくと、なんだか
その絵の存在そのものに「意味」・・・いいえ「意義」が出てきて
格があがりますね。

この「額」が「倫理」なんです。

倫理とはいろんなことにたとえられます
私の別の著書では
「倫理はパンツだ!」と言っています。

でもつまるところ、
「生産的な”リミット"」のことなんだと思うのです。
抑圧的なリミットではなくてね。

さて、白いキャンバスに色をぺちゃぺちゃすることに
慣れて来ると、
勢いづいて、テーブルにぺちゃり・・・
迷惑な落書きが始まります。

「はしっちゃだめ!」という母親の言葉の裏には
危ないところがたくさんある
人にご迷惑をおかけするかもしれない
いろいろな、想いが隠れています。
それに対して
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」という子供の言葉の裏には
もう大きいんだからヘイキ!という
根拠のない万能感があります。

・・・子供の知識はまだ少なく
ノリシロいっぱいなのに、子供にはそれがわからないのです。
この「だーじょーぶ」の正体は
思いっきり走りたいという「意」つまり意思と、
「気」つまり、気持
(欲求)(つもり)
この
意気をくじかれることを、うとましく思って出る
「生意気」です。

「走りたい」という気持ちが
「走ろう」という意図に発展すると
そこに登場してもらいたいのは「考」です。
ここは走るべきところだろうか?
走ったらどうなるだろうか?
こうやって、意気は「考」によって「調理」(理性を調整する)されます。


「考」は経験や教示によって得られる「徳」です。
私は「考」とは、一種の「くせ」だと思います。

「考」によって調理されるべきときに
調理されずにそのまま、発信される意気が
「生意気」です。

自分の知識の少なさを知らずに、
年長者からの「いさめ」を疎ましく思い
自分の力を正当化することは
自分の弱さと至らなさに背を向ける
「不徳」です。

説教をして、教えてやろうという大人に
無用な質問をして、つたない理屈を振りかざすのは
そうすることで、相手を惑わし
説教のコシを折る子供の「反抗」です。
これも、説教の原因を作った行為の意気を
正当化しようとする
「生意気」の表れです。

さぁ、では、
この生意気病、どのようにするのが良いのでしょう?

放っておくわけにはいきませんよね。
でも、たいてい、私たち母親はそんなとき
イライラしてしまって
なんだか、ちゃんと言えなくなってしまうのです。

負けてはいられません。

そこであらかじめ普段から
子供に伝えておきたいことがあります。

「無知の知」
われ、知らぬを知る
・・・自分がすべてを知っているわけではない、
ということを知ること
子供の間は
知らない状態そのものは、
愛をもって許されるという事実
他人の経験にのっかるほうが得だという
事実

これらの情報とともに

恐れる対象を与えるべきです

お父さんでもお母さんでもいいです
なんだったら鬼でも神でもいいです
しっかり「こわい!」と子供が思える存在を
作っておくことです

この恐れこそが
倫理のはじまりなのです。

屁理屈には完璧な理屈を用意しておきましょう。
「だーじょーぶ」妖怪に取りつかれた子供には
しっかり正面から目を見据えて
「何が大丈夫なのか言ってみなさい。
あそこの家に赤ちゃんがいないってなんでわかるんだ
むこうの角から車が急に走ってこないってなんでわかるんだ
大丈夫だと思う理由をお母さんにもわかるように
言ってみなさい。」

そして、自分の子供より小さい子を引き合いにだして
「君とあの小さな子では、どちらのほうがものしり?
君だろ?それは君が〇歳で、あの子よりたくさんのお誕生日をしてるから。
お誕生日の回数だけ、いろんなことを見て聞いて知ってるよね。」
「お母さんは、〇〇回、君よりもう~んとたくさんお誕生日をしてる。
走ってて、車にひかれて大けがをした子のお話しもなんども聞いてる。
だから、君に教えてあげてるの。
お父さん、お母さんと会えなくなってもいいの?」
・・・と年長者の経験を尊重すること、
母親を信頼すること
そして、
行為の結果起こりうるリスクを鮮明に伝えることです。

こういう機会を逃さない
そんな覚悟ある母親で、わたしはありたいと思っています。


Ryo Discovers the World 最終回 五妃街と神農街

Rei and Ryo's Taiwan review, the last chapter. 一ヶ月に渡ってお送りした、台湾シリーズの最終回です。