2018年4月4日水曜日

【モーセ五書タイトルの謎】最終回 ツェレム

<ツェレム>
 ヘブル語で聖書を読むと、「かたち」と訳された言葉は「ツェレム」(צֶלֶם)です。
 ツェレムは、「型」と言う意味です。
 冠詞がついてベツェレム・エロヒームという言葉で、
 ツェレムの意味は、イメージ、像、型に流し込むこと・・・です。
 創造主は、アーダーム(ちり 土くれ אָדָם)を創る際、
 土くれをコネコネして、「私たちにかたどってつくろう!」とおっしゃったのです。
 そして象った(かたどった)ツェレムに、
 ふぅっと、息吹「ネシャマー」を吹きかけられて出来上がったのが、人間という生き物です。
 つまり、霊的なところは、むしろネシャマー、
 つまり創造主の息吹によってもたらされたし…、
 ちょっとまてよ、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記8:21)と
 創造主も告白しているように、霊的なところは、似せて作られたんじゃない!
 (とんでもない)
 絶対善である創造主と、まったく同じ霊に作られたわけではないのです。
 ということは・・・やっぱり、そのまんま、概念やらなんやらではなく、
 みてくれの形が、創造主のツェレム(形)でつくられたってことになります。


<足音は足でたてるもんだ>
 そうやって考えて見ると、創造主に形があることは、
 いろんなところで明記されています。たとえば・・・


【創世記3:8から】
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえた。


 そのほかにも、ヤコブと相撲をとったり(負けかけてるし・・ 創世記32:25~31)
 旧約の時代には、創造主に形はないと思っていましたが、
 どうやら「主なる神」と表される時に、創造主はがっつり、
 マッチョな肉体をもって働かれることがわかります。


<で、どういうツェレムなんよ>
 もちろん、頭があって、首があって、胴体があって・・・
 という形のことでもありますが・・・
 実は、もう一つ似せられた「ツェレム」があるのです。
 ここで、エロヒームの謎なんです。
 どうして「我々」なんだろうってことなんです。
 私たちが似せてつくられたツェレムは、この「我々」という型に似せられたのです。
 だって「おまえに似せて」ではないのですから。


 さきにネタバレしますが、私が言いたいツェルムとは、
 三位一体の神の中に行きかう「関わり」「交わり」のことで、
 これに似せて、人間がつくられたってことです。
 しかし、この御言をご覧ください。


【Iテモテ6:16】唯一不死の存在、近寄りがたい光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。


 うら若き時の私の「神様定義」でご紹介しました。
  • 形がない、エネルギー生命体。
  • 絶対白いひげのじいさんではない。
  • 体や形がないから永遠の存在。


 これは、正しいのです(ほらやっぱり)。形があるなら、見えますから。
 メシアが人の子として生まれてくるのは、
 「神を見たい」という人間の切実な思いに応えてのことです。
 父なる神、御子なる神、そして聖霊なる神は、
 三位一体で別々の「質」をもって存在してるのですが、
 形を持っているのは、御子・・・「主なる神」と呼ばれた、御子です。
 もし、外見要素だけがかたどられたなら、この部分のセリフは
 「おい、御子、おまえは男前やから、おまえに似せてつくったろ。」となるはず!
 でも、このセリフはやっぱり!「われわれに似せて」ベツェレム・エロヒームなんです。
 おっと、忘れていました!
 エロヒームとは、「神」エロアの複数形です。「三位一体の型」なんです。
 三位一体の神の内側は・・・最高です!
 三位の間を行きかうのは「愛」・・・
 愛が交わされ、関わり、完全なる調和が在ります。これが、三位一体の神の本質です。
 私たちの型となったツェレムは、この「交わり」そのものだったんです。

<名を呼ぶ “ことば”>
∴ってなわけで
    初めに荒野で名を呼んだのは、ことば
エロヒームの正体を表している。


唯一絶対の神が、唯一でありながら、単体ではなく、
創造の時に、父なる神の御心に従って「~あれ」と、ことばを発した存在が在る・・・
それが「主なる神」またの名を「ことば」っていうことですね。
 ということは、荒野とは「無」の状態を意味するのでしょう。
 そして、これらの情報は、やっぱり、この福音書の聖句に行きつきます。


【ヨハネ1:1-3】
 初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。
 言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
 万物は言によって成った。
 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。


 私の個人的な印象ですが、
 ユダヤ教の人々は、やっぱり今も昔も、創造主が三位一体である…とは
 捉えていないと思うんです。
「我々」が指すのは父なる神ご自身と、天使たちだと、捉えているかもしれないですし、
 偉い存在だから、単に人数増やしてみただけ、って思っているのか…
 私にははっきりとは、わかりませんが…。


 「三位一体」という言葉は実は一度も聖書で使われていません。
 「三位一体」は、イホシュアがその生涯を通して浮き彫りにした真理です。
 何度か、ご自分が創造の時にヤッウェーと共に在ったと証言し、
 聖霊が独立したペルソナを持つことも表現しています。
 例えば
 【マルコ3:28-29】天の御父やご自身に対する冒涜は赦されるけれど、
 聖霊に対する冒涜は絶対赦されない永遠の罪だと述べています。
 旧約聖書はユダヤ教の経典でもあり、モーセ五書は最重要文書です。
 しかし、エロヒームが三位一体を表す「一人称複数形代名詞」でないなら、
 ユダヤ人にとってモーセ五書のこのタイトルは、
 この二つ目の語列においても、なんら預言性がない事になります。


 エロヒームの世界に「偶然」は存在しません。
 このタイトルがたまたまなわけがないのです。
 エロヒームはこのようにして、様々な事象を通して「我在る」と私達に呼びかけ、
 私達人間がご自分の「ツェレム」としてつくられたことを思い出させようとして下さっています。
 応えていないのは、人間の方なのですね…

あーもったいない!
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<目次>
 1-4 ことば

 2-2 ツェレム

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