<ツェレム>
ヘブル語で聖書を読むと、「かたち」と訳された言葉は「ツェレム」(צֶלֶם)です。
ツェレムは、「型」と言う意味です。
冠詞がついてベツェレム・エロヒームという言葉で、
ツェレムの意味は、イメージ、像、型に流し込むこと・・・です。
冠詞がついてベツェレム・エロヒームという言葉で、
ツェレムの意味は、イメージ、像、型に流し込むこと・・・です。
創造主は、アーダーム(ちり 土くれ אָדָם)を創る際、
土くれをコネコネして、「私たちにかたどってつくろう!」とおっしゃったのです。
土くれをコネコネして、「私たちにかたどってつくろう!」とおっしゃったのです。
そして象った(かたどった)ツェレムに、
ふぅっと、息吹「ネシャマー」を吹きかけられて出来上がったのが、人間という生き物です。
ふぅっと、息吹「ネシャマー」を吹きかけられて出来上がったのが、人間という生き物です。
つまり、霊的なところは、むしろネシャマー、
つまり創造主の息吹によってもたらされたし…、
ちょっとまてよ、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記8:21)と
創造主も告白しているように、霊的なところは、似せて作られたんじゃない!
(とんでもない)
絶対善である創造主と、まったく同じ霊に作られたわけではないのです。
つまり創造主の息吹によってもたらされたし…、
ちょっとまてよ、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記8:21)と
創造主も告白しているように、霊的なところは、似せて作られたんじゃない!
(とんでもない)
絶対善である創造主と、まったく同じ霊に作られたわけではないのです。
ということは・・・やっぱり、そのまんま、概念やらなんやらではなく、
みてくれの形が、創造主のツェレム(形)でつくられたってことになります。
みてくれの形が、創造主のツェレム(形)でつくられたってことになります。
<足音は足でたてるもんだ>
そうやって考えて見ると、創造主に形があることは、
いろんなところで明記されています。たとえば・・・
いろんなところで明記されています。たとえば・・・
【創世記3:8から】
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえた。
そのほかにも、ヤコブと相撲をとったり(負けかけてるし・・ 創世記32:25~31)
旧約の時代には、創造主に形はないと思っていましたが、
どうやら「主なる神」と表される時に、創造主はがっつり、
マッチョな肉体をもって働かれることがわかります。
どうやら「主なる神」と表される時に、創造主はがっつり、
マッチョな肉体をもって働かれることがわかります。
<で、どういうツェレムなんよ>
もちろん、頭があって、首があって、胴体があって・・・
という形のことでもありますが・・・
実は、もう一つ似せられた「ツェレム」があるのです。
ここで、エロヒームの謎なんです。
という形のことでもありますが・・・
実は、もう一つ似せられた「ツェレム」があるのです。
ここで、エロヒームの謎なんです。
どうして「我々」なんだろうってことなんです。
私たちが似せてつくられたツェレムは、この「我々」という型に似せられたのです。
だって「おまえに似せて」ではないのですから。
だって「おまえに似せて」ではないのですから。
さきにネタバレしますが、私が言いたいツェルムとは、
三位一体の神の中に行きかう「関わり」「交わり」のことで、
これに似せて、人間がつくられたってことです。
三位一体の神の中に行きかう「関わり」「交わり」のことで、
これに似せて、人間がつくられたってことです。
しかし、この御言をご覧ください。
【Iテモテ6:16】唯一不死の存在、近寄りがたい光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。
うら若き時の私の「神様定義」でご紹介しました。
- 形がない、エネルギー生命体。
- 絶対白いひげのじいさんではない。
- 体や形がないから永遠の存在。
これは、正しいのです(ほらやっぱり)。形があるなら、見えますから。
メシアが人の子として生まれてくるのは、
「神を見たい」という人間の切実な思いに応えてのことです。
「神を見たい」という人間の切実な思いに応えてのことです。
父なる神、御子なる神、そして聖霊なる神は、
三位一体で別々の「質」をもって存在してるのですが、
形を持っているのは、御子・・・「主なる神」と呼ばれた、御子です。
三位一体で別々の「質」をもって存在してるのですが、
形を持っているのは、御子・・・「主なる神」と呼ばれた、御子です。
もし、外見要素だけがかたどられたなら、この部分のセリフは
「おい、御子、おまえは男前やから、おまえに似せてつくったろ。」となるはず!
「おい、御子、おまえは男前やから、おまえに似せてつくったろ。」となるはず!
でも、このセリフはやっぱり!「われわれに似せて」ベツェレム・エロヒームなんです。
おっと、忘れていました!
エロヒームとは、「神」エロアの複数形です。「三位一体の型」なんです。
三位一体の神の内側は・・・最高です!
三位の間を行きかうのは「愛」・・・
愛が交わされ、関わり、完全なる調和が在ります。これが、三位一体の神の本質です。
愛が交わされ、関わり、完全なる調和が在ります。これが、三位一体の神の本質です。
私たちの型となったツェレムは、この「交わり」そのものだったんです。
<名を呼ぶ “ことば”>
∴ってなわけで
初めに荒野で名を呼んだのは、ことば …
エロヒームの正体を表している。
唯一絶対の神が、唯一でありながら、単体ではなく、
創造の時に、父なる神の御心に従って「~あれ」と、ことばを発した存在が在る・・・
それが「主なる神」またの名を「ことば」っていうことですね。
創造の時に、父なる神の御心に従って「~あれ」と、ことばを発した存在が在る・・・
それが「主なる神」またの名を「ことば」っていうことですね。
ということは、荒野とは「無」の状態を意味するのでしょう。
そして、これらの情報は、やっぱり、この福音書の聖句に行きつきます。
【ヨハネ1:1-3】初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。
言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
私の個人的な印象ですが、
ユダヤ教の人々は、やっぱり今も昔も、創造主が三位一体である…とは
捉えていないと思うんです。
「我々」が指すのは父なる神ご自身と、天使たちだと、捉えているかもしれないですし、
偉い存在だから、単に人数増やしてみただけ、って思っているのか…
私にははっきりとは、わかりませんが…。
ユダヤ教の人々は、やっぱり今も昔も、創造主が三位一体である…とは
捉えていないと思うんです。
「我々」が指すのは父なる神ご自身と、天使たちだと、捉えているかもしれないですし、
偉い存在だから、単に人数増やしてみただけ、って思っているのか…
私にははっきりとは、わかりませんが…。
「三位一体」という言葉は実は一度も聖書で使われていません。
「三位一体」は、イホシュアがその生涯を通して浮き彫りにした真理です。
何度か、ご自分が創造の時にヤッウェーと共に在ったと証言し、
聖霊が独立したペルソナを持つことも表現しています。
例えば
【マルコ3:28-29】天の御父やご自身に対する冒涜は赦されるけれど、
聖霊に対する冒涜は絶対赦されない永遠の罪だと述べています。
「三位一体」は、イホシュアがその生涯を通して浮き彫りにした真理です。
何度か、ご自分が創造の時にヤッウェーと共に在ったと証言し、
聖霊が独立したペルソナを持つことも表現しています。
例えば
【マルコ3:28-29】天の御父やご自身に対する冒涜は赦されるけれど、
聖霊に対する冒涜は絶対赦されない永遠の罪だと述べています。
旧約聖書はユダヤ教の経典でもあり、モーセ五書は最重要文書です。
しかし、エロヒームが三位一体を表す「一人称複数形代名詞」でないなら、
ユダヤ人にとってモーセ五書のこのタイトルは、
この二つ目の語列においても、なんら預言性がない事になります。
しかし、エロヒームが三位一体を表す「一人称複数形代名詞」でないなら、
ユダヤ人にとってモーセ五書のこのタイトルは、
この二つ目の語列においても、なんら預言性がない事になります。
エロヒームの世界に「偶然」は存在しません。
このタイトルがたまたまなわけがないのです。
エロヒームはこのようにして、様々な事象を通して「我在る」と私達に呼びかけ、
私達人間がご自分の「ツェレム」としてつくられたことを思い出させようとして下さっています。
エロヒームはこのようにして、様々な事象を通して「我在る」と私達に呼びかけ、
私達人間がご自分の「ツェレム」としてつくられたことを思い出させようとして下さっています。
応えていないのは、人間の方なのですね…
あーもったいない!
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