2018年1月9日火曜日

教会はキリストの体じゃない!

いっつも 教会という言葉に違和感がありました。

コロサイ1:24
24 いま私は、あなたがたのために苦しむことも、私の務めとして喜んでいます。キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの残された部分を担っているからです。

ここで言われている「教会」とは、今私たちが教会と呼んでいるものを指しているのだろうか?
いま私たちが「教会」と呼んでいる組織は、元をたどれば、プロテスタントも含めて、カトリック教会です。カトリックの基礎をつくったのは、コンスタンティアヌス帝です。コンスタンティアヌス帝はミトラ教徒で、クリスチャンではありませんでした。
これについては、私のこの記事をご覧ください。
ですから、今教会で、使徒言行録にあるようなクリスチャンの姿がないのは、当たり前のことだと言えます。

もし、「教会」がキリストの体なのならば、この組織団体は、「教会」と呼ばれるべきではない、と思っていました。

でも、ある日、聖霊の声が言いました。
「教会でいいんだよ。Church wrong word!」
教会でいい、とおっしゃる一方で、今度は英語で Church チャーチという言葉が間違っていると。

私は混乱しました。
それで、瞑想に入りました。言葉の旅です。
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Churchという英単語はギリシャ語のクリオス Kurios から派生しています。
これは、権力者としての「頭」の集まり、という意味です。
ところが、ギリシャ語の聖書を見てみると、教会がキリストの体だというところにはクリオスという言葉は使われず、エクレシアという言葉が使われています。

エクレシアは「キリストに召された人たち」という意味です。
キリストに召された人たちが、キリストを頭とする、キリストの体と表現されるのは、いかにもしっくりします。それぞれが、与えられた機能を果たすのです。
クリオスは頭だらけです。
頭はキリストだけであるべきです。

Churchはキリストの体ではない。これではっきりしました。
でも、「教会でいいんだよ」という声の意味が今度はわかりませんでした。

となりで、二歳児の生徒が、おままごとのお野菜を箱の中にお片付けしていました。
そして、突如
教会の「教」という字が目についたのです。
教の「教」という字は、宗教の「教」です。仏教、イスラム教、ヒンドゥー教・・・この「教」です。そうか、教会は「教会」でいいんだ。キリストを小さな宗教の箱に標本化していれて、喜んでいる。宗教の会。

そうですね、アバ 教会でいいですね。
私なら、エクレシアを「教会」とは訳さない。「信会」
御名を恐れる者のあつまり。私なら「信会」と訳します。

教会はいわば外枠ですから、教会が必ずしも、エクレシアであるとは限らないのと同じように、教会ならば、キリストとまったく関わりがないかと言えば、それもそうとは限らないです。聖霊を確かに受け取っておられるかたもいらっしゃるでしょう。

それに、教会の流れの始点が、キリストではないとしても、ローマが権力に任せて、あらゆる聖書学資料をせしめたわけですから、データはすべて、教会が握っているのです。ペテロがキリストから継承し、受け継がれていった真実のエクレシアは、権力を手にしたこともなければ、ずっと虐げられてきました。エクレシアの頼みは、聖霊だけだったにちがいありません。今の私と同じです。

クリオスが文字通り、知識をストックしているなら、知識を求めるなら、教会を頼るしかありません。
キリストは万能です。たとえご自分と関わりのない組織であっても、各個人レベルではキリストと関わりない人などこの世には存在しないわけですから、キリストとつながった教会や、聖職者もいるでしょう。
なにより、キリストという言葉の元、集まってきた彼らがキリストを強く求めていることには変わりありません。
そんな彼らを、キリストが見捨てるわけも、ありません。

ずっと、呼んでいらっしゃると思います。

ただ、私は聖霊だけを頼りにする信徒たちにも、キリストは警鐘をならしていると思います。癒せば聖霊の働きか・・・いいえ、悪魔にも癒しは行えます。奇跡は悪魔からも起きるのです。
癒しの奇跡=聖霊の働き これは違います。
たとえ、聖霊の働きによって人を癒したとしても、新生に導くことができたとしても、浅はかな知識では、人を「聖化」へ導くことはできません。それは教師の仕事です。


最近の聖霊派の使徒たちのなかには「私たちはキリストによって新約の下にあるから、旧約は無視して良い」などという人もいました。 浅はかな言葉です。
この傾向は、カルヴァンからおこった傾向です。ユダヤを貶めることで、キリストとは直接つながっていない自分たちヨーロッパ人を正当化しようとしたのです。
あまりにも、浅はかです。
この傾向が、のちのナチスのユダヤ人迫害につながることは、言うまでもありません。

時々声を大きくして言わなくてはいけません。

キリストは地上にあるとき、ユダヤ人として生きたのです!
ユダヤの崇める「存在」が、この世の全てを創造したことを証するために
わざわざ あえて ユダヤ人に生まれられたのです!
旧約を無視していいなど、そんな人はクリスチャンじゃない!

キリストが「聖書はすべて真実であり正しい」とおっしゃった「聖書」は旧約聖書を含むユダヤ経典の聖書です。今のキリスト教徒が手にしている旧約聖書は、先ほど言ったコンスタンティヌス帝が組織した教会によって編纂されていますし、おまけに、プロテスタントはそれをさらに削ったものを聖典としています。
ただですら、私たちの手に届かないところに、「真実の書物」の一部があるのでしょうのに、私たちの手にかろうじて残った旧約を無視などしたら、真理から遠のくばかりです。

教会からつまみ出され、教会から外れているから 真実の使徒なのか
とんでもありません。
教会は、それぞれの努力でエクレシアである努力をし、聖霊の働きを再確認するべきだとも思いますが、奇術師のように癒しにばかりこだわり、たいした知識もないのに教会を批判する信徒たちも魂を扱う責任に目覚めなければ、聖霊を侮辱しているにすぎません。
聖霊を侮辱する行為には、肉の処罰があります。

癒しの力がなければ、ただの負け犬の遠吠えでしょうから、私はこの批判を口にするのを待ちました。私も今では、癒しの業を行う器としてキリストに選ばれ、癒します。悪霊も払います。

聖霊を求めなくてはいけません。
聖霊を得て癒しても、それが聖別された保証とは限らないのです。悪魔も癒すことを忘れてはいけません。悪魔の道具になってはいけません。

小さなキリストたるクリスチャンにならなくては、いけません。
キリストは「私のようで在りなさい」とおっしゃったのですから。

Ryo Discovers the World 最終回 五妃街と神農街

Rei and Ryo's Taiwan review, the last chapter. 一ヶ月に渡ってお送りした、台湾シリーズの最終回です。