2017年4月19日水曜日

On the Way to Emmaus





ちょっとイタズラっ子のようなイエスの姿に

底抜けのやさしさを感じます。



英語の聖書では「Foolish」「ばかだな~」とかいうキツイ言葉も使っているのですのですが

これは、きっと紀元33年当時の、イエスたちが話していたヘブライ、ギリシャ語、または(可能性は低いですが)ラテン語の言語文化として、そ~んなキツイ表現ではなかったのではないかと思います。



イエスの処刑後

弟子たちは落胆しきっていて、おそらく離散寸前だったのでしょう。

それもそのはずです

イエスの宣教活動はたった3年

奇跡が嘘だったら、こんなにも短期間であれほどの信者を集められなかったはずです。

イエスを支持する人々の数がおびただしかったから、ユダヤ教の司祭たちは、イエスを処刑しなくてはならなかったのです。

しかし、そんな勢いも、元祖カリスマたるイエスが死んでしまったのだから、終わりです。

この弟子たちがどうしてエマオに行ったのかはわかりませんが、二人が落胆しエルサレムを離れていこうとしていることからも、弟子たちがイエスを失って、信仰指針を失っていることがわかります。2人は、イエスの復活を疑いながら歩いています。



しかしながら、キリストの教えは、ここでは終わらず、イエスの死から1985年たった今も、広がり続けています。



私も、この復活に対して長い間疑問を持っていました。

私が支持したのは、「集団トランス論」です。

イエスの死に大きな衝撃を受けた弟子たちが、イエスの復活という、幻想によって、心理的ストレスを処理した・・・。

長い間そう思っていました。

嘘だとは思っていませんでした。嘘にしては、証言がバラバラすぎます。 イエスの後継者となったペテロは、強い説得力のある男でしたから、そうしようと思えば、弟子全員の証言を操作するなど、容易にできたはずです。

証言がバラバラなのは、周到に用意された嘘なのではなく、各個人が自分が体験したことをそのまま証言したからです。

そして、嘘を裏付ける証人として、女性を登用するなど、ありえないことです。

イエスの復活を最初に目撃したのは、マグダラのマリアをはじめとする、女性たち。当時の女性たちの社会的身分の低さを考えると(発言権など全くなかった)、話の信ぴょう性を立証するキャストとして、女性を選ぶとは、考えられないのです。

ですから、嘘であるということはあり得ません。

だから、私は「集団トランス論」によって、イエスの復活という出来事を処理していました。
しかし、それでは辻褄が合わないのです。

集団トランスというのには、閉鎖された空間、という要素が必要ですが、イエスの死の際、弟子たちはバラバラの場所にいますし、女性たちも別々のところから、イエスの遺体を清めに墓に向かうのです。そして、トマスはイエスの死を目撃していませんが、復活したイエスの体に触れたと証言します。トマスはイエスの死後エルサレムに帰ってくるのです。

イエスの受けた拷問は、それは壮絶なもので、それを目の前で目撃したヨハネや生母マリアが心的ストレスから一種のトランスに陥るのもわかるのですが・・・

弟子たちのほとんどは、イエスの逮捕の時に逃げ出してしまっているのです。

論理的に辻褄が合いません。

そして何よりも、「イエスの復活」を裏付ける証拠は、1985年の時を経てもなお、キリスト教が存続している、という事実です。

このエマオへの道のエピソードが示しているのは、弟子たちは、絶望して離散しようとしていたということです。事実この二人は、エマオで復活のイエスに遭遇したあと、慌ててエルサレムに引き返しています。逮捕の手は、イエスの弟子にまで及ぶ可能性もあり、みんな息をひそめて潜伏していました。この二人はあきらめて、エルサレムから出ようとしていたのに、わざわざ、危険を冒してまでエルサレムに戻っています。

そして、イエスの復活を証言し、弟子たちはそこから、なんと、キリストの教えを広める活動を始めるのです。それで、彼らはどんな得をしたのでしょうか?

大金を得たのですか?

まったくそんなことはありません。それどころか、彼らはさらなる迫害に会い、後継者だったペテロは、逆さ十字架にかかって亡くなります。いったい何の得があって、そんなことをするのでしょうか?

イエスの顕現を見たからこそ、死をも覚悟で宣教したのではないでしょうか。

どの宗教も迫害の経験があります。しかし、布教することで拷問を受けて、自ら死に向かっても布教していったのは、キリスト教だけです。

イエスの顕現が嘘だったり、単なる幻想だったとしたら、人をこれだけのことに駆り立てるには、弱すぎる要素です。


天皇のために、敵機に突っ込んでい行った特攻隊の心理に似ているのでは?と言われる方もおられます。しかし、まったく違うのです。天皇とは地上の権威です。イエスはこの時も虐げられた、大工の息子です。地上の権威というのは、豪華な邸宅だったり、その権威を裏付ける物的要素があります。しかし、イエスはといえば、ロバに乗ってエルサレムに入っていくのです。

十字架という見せしめの刑罰で、両隣を盗人に挟まれ「罪人」として死んだのです。

こんな状況で死んだ人のために、あれだけの人数がトランスに陥り、死をも憶さずその言葉を広めようなどという気にさせるなら・・・イエスという人の「PASSION」に「真実」があるからではないでしょうか。
そして・・・
私たち一人ひとりが、イエスの復活を真実だと証ししているのです。

何の得もしないのに・・・、拷問されて死ぬかもしれないのに、その教えを広めようなどと、貴方ならしますか?

私なら、「惜しい人を亡くしたわ」と気の毒には思っても、せっせと現生の権力にへつらいながら、生きていくでしょう。

それが人というものです。しかし、弟子たちは「宣教」したのです。


今の世の中、もはや奇跡は必要ありません。

そのように備えられたのです。・・・・二千年の時を経て。
私にとって、科学こそ神が与えられた人類最大の「恵」です。論理こそが神が人に与えた最高の「技」です。

奇跡が必要ないのは、私たちのように、「無名の個人」でも、論理的に合理的に考え、自分で判断する・・・つまり「自由」が認められた時代だからです。

これが、真実です。

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