2017年12月10日日曜日

クリスチャンミニストリー「いどばたのおしゃべり」 Vol1 マリアの視点で真実を見る【処女受胎は真実】



イエスを信じない人にとって、聖書に書かれていることは、ただの神話にすぎないでしょう。



私たちイエスの聖徒にしてみれば、イエスの命令に従うことはごく当然のことなんです。なぜなら、この世界を創造した創造主の命令なのですから。

でも、信じない人々にしてみれば、その「創造物語」にしても、イエスの数々の奇跡にしても、それらはみな、「神話」あるいは、「嘘」にすぎないのです。



今はちょうど、降誕節

イエスがこの地上に人の子としてお生まれになったことを、お祝いする時と、教会組織が定めた時節です。



イエス誕生の逸話はあまりにも有名です。



ルカによる福音書 1章30節-34節

30 すると、天使が言いました。「こわがらなくてもいいのです、マリヤ。神様があなたにすばらしいことをしてくださるのです。 31 あなたはみごもって、男の子を産みます。その子を『イエス』と名づけなさい。 32 彼は非常に偉大な人になり、神の子と呼ばれます。神である主は、その子に先祖ダビデの王座をお与えになります。 33 彼は永遠にイスラエルを治め、その国はいつまでも続くのです。」 34 マリヤは尋ねました。「どうして私に子どもができましょう。まだ結婚もしておりませんのに。」


男性経験がないマリアがみごもるという、受胎告知です。



神を信じるものは言います。「神様なんだから、これくらいできる。だからこれは真実」

でも、神を信じない人々は言うでしょう「処女はみごもらない。だからこれは嘘。」



この世の科学で考えたとき、正しいのは後者です。

しかし、本当にそれは真実でしょうか。



私もかく言いつつ、この「処女受胎」は「虚構」だと思っていました。

未婚のあいだに、男性と交渉をもってみごもったマリアの処世術。賢いじゃない!

そう思っていたのです。

当時のユダヤ社会で未婚の母になるなどと、とんでもないことなんです。

タブーの中のタブー。リンチを受けて、石を投げられゆっくりと殺されるかもしれないのです。

だから、ヨゼフが彼女と結婚するかしないかは、彼女にとって命がけの勝負です。

「処女だけど、神様の子供をみごもった。」ぐらいの嘘をついたって、不思議はないのです。



しかし、信仰に立ち返って、信仰の目で見た時、全く違う、マリアの視点が見えてきたのです。



私は毎日、イエスの十字架の犠牲を思いながら祈ります。

私は劇作家でもあるので、祈るとき、かなり立体的にそのシーンを頭の中で再現しつつ、そこに臨場するかのように想像するのです。

いつものように、私はイエスの血まみれの足元に居ました。

「イエス様、あなたの真実を、救われるべき魂に伝えるにはどうしたらいいでしょう?」

すると、イエスは十字架の上でこうおっしゃったのです。

「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」(ヨハネ19:26)

私ははっとして、振り向きました。

そこには、イエスの母マリアが、苦渋の涙を流しながら立ちすくみ、イエスを仰ぎ見ています。



この姿を通して、私は真実に気付かされました。



イエスの処刑は、ローマ側の記録にも残っています。

そして、この処刑の場に、母親のマリアが立ち会っていることは、



マタイ27:55-56

マルコ15:40

ヨハネ19:25-27



に記されています。

その場に母マリアがいた。黙って見守っていた。

ありえない!!



私は思いました。

黙って見守っていた?。。。そんなことあるはずがない!



この当時のユダヤはローマ帝国の占領下にありました。

ですから、イエスは逮捕されて、ユダヤ側の裁判を受けたあと、ローマ側に引き渡されたのです。ユダヤ側の裁判は公正からは程遠いものでした。しかし、ローマ側の裁判で、ピラトはイエスを見てこう言いました。「この男に罪は見受けられない。」

彼らは、イエスを許そうとしていたのです。

その場にマリアも立ち会っているのです。

母親として、もし処女受胎が虚言だったなら、そこで叫んでいたはずです。



「全部、嘘だったんです!」



自分の嘘を真に受け、神の子供だと信じ込んだ息子が、なんだか宣教活動をして大ごとになったけど、息子は気がおかしいだけなんです。

この時にマリアがそう叫んでいたら、ユダヤ側もイエスの権威を失墜させれて用は果たされ、処刑は免れたかもしれません。

おそらく、もし処女受胎が嘘だったなら、そう叫ばずにはいられないはずです。



マリアの母性に問題があり、子供を見捨てるほどに愛がなかったなら、その場にすらいなかったハズなのです。



でも、彼女は叫ばず、泣きながら、一部始終を見守ったのです。

これは無言の証です。

二千年の時を超えて、母親の愛という普遍の真理が私たちに叫ぶ真理の証です。処女受胎が真実であり、イエスの受難が神の御心あったからこそ、彼女は黙って見守ったのです。そうするしかなかったのです。

処女受胎を告知された時の彼女の言葉と、ゲッセマネの園で血の汗をながされたイエスの言葉とが同じなのですが、神の前にひざまずき、神の愛を信頼し、希望をもってただひたすら従う「強い信仰」と言う名の愛が、この言葉に溢れ出ています。



「御心通りになりますように。」


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