2018年4月4日水曜日

【モーセ五書タイトルの謎】<ことば>

〈ことば〉


 【ヨハネ1:1-3】 初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。


 先ほどから私が引用してますヨハネの福音書:
 この福音書の著者のヨハネは「ゼベダイの子ヨハネ」でバプテスマのヨハネとは別人です。
 ゼベダイの子ヨハネは、イホシュア(イエス)の弟子の一人です。
 この部分で、何を言いたいか…
「ことば」とはイホシュア(イエス)のことだと証しているのです。
 創造主はあらゆるものを「ことば」…
 デジタル人間のわたしはこれを「コマンド」のようなものだと解釈しています。
 創世記を見ると、「ひかりあれ」「〜せよ」「〜となれ」…
 と、すべてが「コマンド(ことば)」によって創造されています。
 ゼベダイの子ヨハネは、この世を創られた「創造主」とナザレのイホシュアが同じ存在であり、
 この世のすべてを創造した「コマンド」…
 つまり「ことば」がイホシュア自身であると言っています。


∴てなわけで…
初めに、荒野で呼ばれた名は、ことば...


 モーセ五書のタイトルをこのように並べるなら、
 ナザレのイホシュア(イエス)の事を、預言してるという事になります。
 聖書は創造主の英知を表した書物です。
 タイトルのメッセージが「ことば」たるイホシュアを指し示しているなら、
 聖書に示されている、創造主の英知を理解するには、
 メシアたるイホシュアの存在が不可欠である、ということを表しています。


 バプテスマのヨハネの様に荒野で「悔い改め」を呼びかけて叫んだ人間は、
 彼以外に記録上存在しません。記録に残っていない人で、
 荒れ野でシャウトしてた人がいたとしても、記録に残っていない時点で、アウトです。 
 なぜなら、ユダヤ教の教典でもある旧約聖書によれば・・・
          荒野のシャウト救世主の贖いの死などなど・・・
 預言されたこれらのプロセスを経て、
 創造主の「みことば」は異民族にも伝わり、
 全世界に広まって、創造主はユダヤ人じゃない人達も「我が民」と呼び、
 ユダヤ人じゃない人達も創造主の事を「我が神」と呼ぶ様になると、
 書かれていますから…記録にに残ってないなんて、問題外なんです。
 『預言のシャウト』は預言実現リレーの循環軌道に含まれてないと、本物ではありえません。
 
なので、唯一荒野シャウトをしていたバプテスマのヨハネが、
イホシュアをはっきりとメシアだと宣言し、そのメシアを、ゼベダイのヨハネが、
「メシアこそが、天地創造の実働者たる『ことば』である」と言っています。
ダブル・ヨハネが、このモーセ五書の暗号を、前から、そして後ろから・・・
二つのベクトルで証明し、タイトルがこうなっているのは、
創造主の英知の書たる旧約聖書の神秘は、
「初めのことば」五つ全部が示すイホシュアの存在こそが、
最初にあるべき「解析フィルター」、
つ・ま・り、イホシュアこそが絶対必要な大前提で、
イホシュアというフィルターがなければ、
父なる創造主の御心を知ることはできないんだってことではないでしょうか?


イホシュア=キリストは、創造主の神秘を解明するカギ
 
 <がっつり余談>
 この預言がイホシュアを指示していると証した二人が「ヨハネ」であるということも、
 まさに妙なる創造主の業です。
 ヨハネは、本来ヨッハナーンという名前なんですが、
 これは、ヘブル語で「主は恵み深い」という意味です。さきに生れた「深い恵み」と、
 後から生まれた「深い恵み」がイホシュアをメシアとして証明しています。
 私は、このこと自体、絶対唯一無二の創造主、
 そのとこしえなる最高の恵みが何なのかを雄弁に物語っていると思います。
 聖書に出て来るエピソードは、必ず、
 起こるべき時に、起こるべき場所で、起こるべきように、起こるべき人を通して起こっています。
 名前に注目して聖書を読むと、聖書がまさに「真理の書」であることが、よくわかります。
 だから、私は救い主を「イエス」と呼ぶのをやめたのです。

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<目次>
 1-4 ことば

 2-2 ツェレム

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