2018年4月4日水曜日

【モーセ五書タイトルの謎】〈当時のユダヤ事情ざっくり〉

〈当時のユダヤ事情ざっくり〉
 愛だよ、愛…
 創造主ヤッウェーは、エジプトで奴隷として虐待されていた ご自分の民を、
 エジプトから連れ出しました。
 ・・・ヤッウェーはご自分の民を愛しているからです。


 創造主ヤッウェーは、エジプト脱出後、
 餓えに苦しむ民のために空からマナを降らせ養われました。
 ・・・ヤッウェーはご自分の民を愛しているからです。


 創造主ヤッウェーは、モーセを通して、
 ご自分の民に「十戒」・「律法」をお与えになりました。
 ・・・ヤッウェーはご自分の民を愛しているからです。


ヤッウェーの求める「見返り」
 これらの愛に対してヤッウェーが見返りとして「ご自分の民」に求めていたのは、
 なんでしょう? 生贄でしょうか?金銀財宝でしょうか?
 国民の全収入の上前でしょうか?豪華な神殿でしょうか?
 この全世界を創造されたヤッウェーにとって、
 こんなもの全部、ナッシングです。無意味なんです。ヤ◯ザさんじゃあるまいし…
 わたしたちのスーパー・ダディ、ヤッウェーが求めたこと…それは、
1 ダディと向い合ってね
2 兄弟愛し合ってね
 この2つだけです。


「手段」が「目的」に… ダディがっかり
 厳しい律法はユダヤ人を守りました。ユダヤ人の歴史は迫害の連続です。
 もう、びっくり!です。でもそんな困難のなかでも、ユダヤ人は律法を重んじ、
 そうやって自分たちのアイデンティティを保持していったのです。
 つまり、ユダヤ人が律法を守ったのではありません。律法がユダヤ人を守ったんです。
 自分たちを捕らえている人々が、金の像を「神様ぁ!」と崇めていたら、
 「そんなん神様ちゃうもん。創造主はそんなんちゃうもん」と自分を励まし…
 となりの民族が、豚肉を食べれば、「僕らはみんな、食べないも〜ん!」とはねのける…
 そうしているとなんだか、自分たちは特別なんだと感じる事が出来たのかもしれませんね。
 しかしスーパー・アバ(ヘブル語で父)ヤッウェーは、
 この律法を、上の1と2を人間が成就するための手段としてお与えになったのですが、
 いつのまにか、ユダヤ人にとって、『手段』が『目的』になり、
 全てはただの「儀式」になってしまいました。
 本当の目的である1も2も、ガッツリ無視されてきたのです。
 ヤッウェーの民は、ヤッウェーと親しく「礼を交わす」時空間を失いました。


「い〜けないんだぁ〜♪ いけないんだ〜♪」
 お互いに「律法Gメン」のようになったかどうかはわかりませんが、
 人々は次第に、律法を守る事だけに必死になりました。
 お互いに揚げ足を取ることを虎視眈々と狙い、
 あるいは揚げ足を取られないように毎日きゅうきゅうと過ごします。
 ちょっとでも間違うものなら、隣人が「処刑人」に化けて、石を投げてきます。
 互いに愛し合うようにというヤッウェーの願いは、
 その民から忘れ去られてヤッウェーの民は、
 ヤッウェーからそっぽを向くようになったのです。


「向き直れ!」
 バプテスマのヨハネは、「罪を悔い改めよ!」と強く説き、
 本来ヤッウェーの神を信仰していない異邦人たちが、
 ヤッウェーに改宗する時に行なうような「水の清め」を、
 ヤッウェーの民であるはずのユダヤ人に施して来ました。それが、準備だったのです。
 関西人風に言うと…「ダレとったあかんどぉ!」ということです。
 ヘブル語で悔い改めるとは、「向き直る」という意味の言葉を用います。
 そっぽを向いてお互い律法合戦を繰り広げるユダヤの民に、方向転換を迫ったのです。
 「オトンの顔見ぃやぁ。」です。
 ヤッウェーにとって罪とは(まぁそりゃ色々あるでしょうが、根底的に)
 ヤッウェーから顔を背けることです。
 律法はヤッウェーと親しく向き合うために与えられたんですから、
 ヤッウェーから顔を背けることは、めぐりめぐって結局律法に違反することになるのです。
 バプテスマのヨハネは、ユダヤの民にもう一度、
 創造主、唯一絶対の神ヤッウェーから顔を背けるのをやめ、
 向き直るよう、人々に強く説いていたのです。

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<目次>
 1-4 ことば

 2-2 ツェレム

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