2018年4月26日木曜日

Who wrote the love letter on Cherry blossoms?

Japanese translation, below.
日本語は、下に書いてあります。

Spring last year, in love at first sight of you,
returns the cherry blossoms, just to have the same sight upon you.
From Man-Yo-Shu, Japan's oldest anthology of poems.  Author unknown.

My 8 years old son learned this poetry and wasn't quite convinced with the
explanation of “personification”.
I tried to give him a better explanation on that grammatical technique,
but he keeps on telling that is wrong.
“ Personification is putting un-man kind objects to be man-like, right?
But it is YHWH, our creator, that loves a lot
and trying to tell us how much He Loves us
by making cherry blossoms bloom pretty, right?
So cherry blossoms are “media” or “ idea” of His Love, not men.”

Amen, child of light.

The picture is Yeshua, Zachariah and Sycamore fig tree.


去年(こぞ)の春 逢えりし君に 恋にてし
桜の花は、迎えけらしも
万葉集より (作者不明)

学校で万葉集の和歌を習った息子(三年生)
プロの歌人を母に持つ息子にとって、和歌・俳句の勉強は
ちょっとプレッシャーかもと思いながらも、
早速「光の子」としての力を発揮しました。

この万葉集の歌は詠み人が知れないですが、女性であることは間違いないですね。

去年の春、あなた様にひと目で恋をした桜が
またお会いしたくて咲いています…。

そういう歌です。
息子はこれを学習して「間違ってる!」と主張。
私は額面通り、「それは擬人法という表現方法で…」
息子「だから、擬人法が間違いなの!」
私「あなたよりもお勉強をした人に口答えするのは、やめなさ…」
息子「ぎじんほうって、人に置き換えてるんでしょう?違うんだよ。
僕たちのことが大好きで桜を綺麗に咲かせたのは、ヤッウェ様なんだもの。
桜のお手紙を書いたのは聖霊様なんだよ。」

ぐぅの音も出ません… 恐れ入りました。

2018年4月25日水曜日

The way to Sakhal.

As my Bible reading plan was scheduled to read Psalm 64,
I read it in Japanese and in Hebrew after that.

Having read in Japanese, I clearly felt that the verse 9 and 10
are meant to be the conclusion of Psalm 64.
And when I read it in Hebrew, I found that there is a “word map” hidden in verse 9 and 10.
In verse 9, you see “Sakhal” that is a word means “to discern” or “to perceive”.

In verse 10, you see “Samakha” that means “to rejoice”, “Hasah” that means “to refuge”
and “Hallal” means “to be proud of” or “ to praise”.
The word of “Sakhal” (discerning) seems as if it is consisted by those three words in verse 10.

Discerning YHWH’s plan can be done only by rejoicing His Love toward you,  being sheltered under His Wings, and by be proud of your being straight toward His Face.

2018年4月8日日曜日

やっぱりプラマイ「0」?!

11日でたどり着くはずの約束の地なのに、
40年間も荒野をさまよい、結局、ユタカな約束の地を見ることなく
死んじゃった…モーセさん。

これってキツいよね〜
たった一回の失敗でぇ〜?

ってー思ってました。
私のようなスーパー・ハイパーな罪人は
一度ならず失敗してますので、もしかしたら…私の苦悩は一生終わらないのかも
と心配になります。

でもでも、よくよく考えていると
聖霊様がささやいたっ!

「モーセは贅沢を享受していたでしょ。
キリストの予表なのわすれてない?」


あああああ!!!!
王子だったのよ、モーセは!
自分の民が鞭打たれて奴隷の苦しみを味わっている間
彼は豪華な神殿で贅沢を楽しんでいた。
ラムセスが嫉妬するほどに、王様から可愛がられて。

そうでしたね
そんな楽園に居たのに野に下る。
これはイホシュアの予表ですね。

それに、カナンよりも
良いとこに入れてもらえたのよね。

私はモーセ型じゃなくて、むしろ奴隷の民型
今は荒野にあっても訓練が終われば… やったー!



行くよぉ〜っ!約束の地ぃ‼

2018年4月4日水曜日

【モーセ五書タイトルの謎】目次

べレシート〜はじめに

 大石教会の金井牧師が、みっちり神学を教えてくださる「金井塾」で
金井先生が「モーセ五書は全部、その文章の初めの文章から抜粋された文言が
タイトルになってる」と教えられ…

「へぇ〜」っと思った私

 創世記が「べレシート」(ヘブル語で「初めに」の意味)というんだよ、
                     ってなことは知っていたのですが、
 まさかモーセ五書全部がその調子だとは思わず、好奇心がムクムク♪
 モーセ五書全部のヘブル語タイトルを調べてみました。


 モーセ五書とは、旧約聖書のしょっぱなの五つの書の事です。
 
 この五つのタイトルを並べた時正直、鳥肌がたちました。
 真っ先に浮かんだのが、「荒野に呼ばわる声がする」と
 バプテスマのヨハネの事を預言するあの、聖句です。
 「初めに、荒野で呼ばれた名は、ことば」
 しかし、もうひとつの並べ方が出来ます。
 「初めに、名を荒野で呼んだのは、ことば」
 この2つで発信するメッセージが少し異なるようですが、
 同時に、おんなじ事を言ってる…という結論になると思いました。
 それでは、この2つの語列それぞれの暗号メッセージを紐解いてみましょう。
          って…あくまでも個人的な研究による個人的な見解ですが…

<目次>
 1-4 ことば
 2-2 ツェレム


【モーセ五書タイトルの謎】1.カギたるキリスト

1 カギたるキリスト

初めに、荒野で呼ばれた名は、ことば...だったらどうなるの?


 私が、真っ先に思い浮かんだのは、マタイのこの文言です。
 【マタイ3:3】(フランシスコ会訳)
この人は、預言者イザヤによって、
  「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
  『主の道を整え、
  その道をまっすぐにせよ』
と言われた人である。


 これは、旧約聖書のこの部分を引用しています。
 【イザヤ40:3】
呼びかける者の声がする。
「荒れ野に主の道を備えよ。
荒れ地にわたしたちの神のための街道を
 まっすぐにせよ
 マタイの文章は、旧約聖書のイザヤ書で預言された「呼びかける者」が、
 ズバリ!バプテスマのヨハネのことだと言っています。バプテスマのヨハネは、
 まさに預言の通り、荒野で野生児の様に、ラクダの毛皮を身にまとい、
 イナゴを食べて生活していました。
 彼は、自分より少し後に訪れるメシア(救世主)のために準備、つまり、道を整えていました。
 この時の「荒野」「荒れ地」は、
 そのまんま、「荒れ野」という地形的意味
(人が住んでいなくて、もの寂しく、作物が育つわけでもない荒れたところ)と、
 罪人の世の中を意味しています。
 準備とは、具体的に何だったのか… 
人々に悔い改めを呼びかけ、神に「向き直る」よう説いていたんです。


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<目次>
 1-4 ことば


 2-2 ツェレム

【モーセ五書タイトルの謎】〈当時のユダヤ事情ざっくり〉

〈当時のユダヤ事情ざっくり〉
 愛だよ、愛…
 創造主ヤッウェーは、エジプトで奴隷として虐待されていた ご自分の民を、
 エジプトから連れ出しました。
 ・・・ヤッウェーはご自分の民を愛しているからです。


 創造主ヤッウェーは、エジプト脱出後、
 餓えに苦しむ民のために空からマナを降らせ養われました。
 ・・・ヤッウェーはご自分の民を愛しているからです。


 創造主ヤッウェーは、モーセを通して、
 ご自分の民に「十戒」・「律法」をお与えになりました。
 ・・・ヤッウェーはご自分の民を愛しているからです。


ヤッウェーの求める「見返り」
 これらの愛に対してヤッウェーが見返りとして「ご自分の民」に求めていたのは、
 なんでしょう? 生贄でしょうか?金銀財宝でしょうか?
 国民の全収入の上前でしょうか?豪華な神殿でしょうか?
 この全世界を創造されたヤッウェーにとって、
 こんなもの全部、ナッシングです。無意味なんです。ヤ◯ザさんじゃあるまいし…
 わたしたちのスーパー・ダディ、ヤッウェーが求めたこと…それは、
1 ダディと向い合ってね
2 兄弟愛し合ってね
 この2つだけです。


「手段」が「目的」に… ダディがっかり
 厳しい律法はユダヤ人を守りました。ユダヤ人の歴史は迫害の連続です。
 もう、びっくり!です。でもそんな困難のなかでも、ユダヤ人は律法を重んじ、
 そうやって自分たちのアイデンティティを保持していったのです。
 つまり、ユダヤ人が律法を守ったのではありません。律法がユダヤ人を守ったんです。
 自分たちを捕らえている人々が、金の像を「神様ぁ!」と崇めていたら、
 「そんなん神様ちゃうもん。創造主はそんなんちゃうもん」と自分を励まし…
 となりの民族が、豚肉を食べれば、「僕らはみんな、食べないも〜ん!」とはねのける…
 そうしているとなんだか、自分たちは特別なんだと感じる事が出来たのかもしれませんね。
 しかしスーパー・アバ(ヘブル語で父)ヤッウェーは、
 この律法を、上の1と2を人間が成就するための手段としてお与えになったのですが、
 いつのまにか、ユダヤ人にとって、『手段』が『目的』になり、
 全てはただの「儀式」になってしまいました。
 本当の目的である1も2も、ガッツリ無視されてきたのです。
 ヤッウェーの民は、ヤッウェーと親しく「礼を交わす」時空間を失いました。


「い〜けないんだぁ〜♪ いけないんだ〜♪」
 お互いに「律法Gメン」のようになったかどうかはわかりませんが、
 人々は次第に、律法を守る事だけに必死になりました。
 お互いに揚げ足を取ることを虎視眈々と狙い、
 あるいは揚げ足を取られないように毎日きゅうきゅうと過ごします。
 ちょっとでも間違うものなら、隣人が「処刑人」に化けて、石を投げてきます。
 互いに愛し合うようにというヤッウェーの願いは、
 その民から忘れ去られてヤッウェーの民は、
 ヤッウェーからそっぽを向くようになったのです。


「向き直れ!」
 バプテスマのヨハネは、「罪を悔い改めよ!」と強く説き、
 本来ヤッウェーの神を信仰していない異邦人たちが、
 ヤッウェーに改宗する時に行なうような「水の清め」を、
 ヤッウェーの民であるはずのユダヤ人に施して来ました。それが、準備だったのです。
 関西人風に言うと…「ダレとったあかんどぉ!」ということです。
 ヘブル語で悔い改めるとは、「向き直る」という意味の言葉を用います。
 そっぽを向いてお互い律法合戦を繰り広げるユダヤの民に、方向転換を迫ったのです。
 「オトンの顔見ぃやぁ。」です。
 ヤッウェーにとって罪とは(まぁそりゃ色々あるでしょうが、根底的に)
 ヤッウェーから顔を背けることです。
 律法はヤッウェーと親しく向き合うために与えられたんですから、
 ヤッウェーから顔を背けることは、めぐりめぐって結局律法に違反することになるのです。
 バプテスマのヨハネは、ユダヤの民にもう一度、
 創造主、唯一絶対の神ヤッウェーから顔を背けるのをやめ、
 向き直るよう、人々に強く説いていたのです。

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<目次>
 1-4 ことば

 2-2 ツェレム

【モーセ五書タイトルの謎】<荒野の叫びって、何叫んどったん?>

〈荒野の叫びって、何叫んどったん?〉
「イホシュアーーーー!」
 では、荒野でバプテスマのヨハネが何を叫んでいたのか、シャウトの内容を紐解いてみましょう。


  【ヨハネ1:29-30】
 その翌日、ヨハネは、自分の方にイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。
わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。


 バプテスマのヨハネは、イホシュア(イエス)こそが、
 そのメシアであると高らかに宣言しています。
 荒野で叫ばれたこと、それは…「イホシュア(イエス)がメシアである」です。
 そして、この「イホシュア(イエス)のバプテスマ」のエピソードは、
 イホシュア(イエス)の公生涯において、一番「初めに」起こったことです。




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1-4 ことば
<目次>
 1-4 ことば
 2-2 ツェレム

【モーセ五書タイトルの謎】<ことば>

〈ことば〉


 【ヨハネ1:1-3】 初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。


 先ほどから私が引用してますヨハネの福音書:
 この福音書の著者のヨハネは「ゼベダイの子ヨハネ」でバプテスマのヨハネとは別人です。
 ゼベダイの子ヨハネは、イホシュア(イエス)の弟子の一人です。
 この部分で、何を言いたいか…
「ことば」とはイホシュア(イエス)のことだと証しているのです。
 創造主はあらゆるものを「ことば」…
 デジタル人間のわたしはこれを「コマンド」のようなものだと解釈しています。
 創世記を見ると、「ひかりあれ」「〜せよ」「〜となれ」…
 と、すべてが「コマンド(ことば)」によって創造されています。
 ゼベダイの子ヨハネは、この世を創られた「創造主」とナザレのイホシュアが同じ存在であり、
 この世のすべてを創造した「コマンド」…
 つまり「ことば」がイホシュア自身であると言っています。


∴てなわけで…
初めに、荒野で呼ばれた名は、ことば...


 モーセ五書のタイトルをこのように並べるなら、
 ナザレのイホシュア(イエス)の事を、預言してるという事になります。
 聖書は創造主の英知を表した書物です。
 タイトルのメッセージが「ことば」たるイホシュアを指し示しているなら、
 聖書に示されている、創造主の英知を理解するには、
 メシアたるイホシュアの存在が不可欠である、ということを表しています。


 バプテスマのヨハネの様に荒野で「悔い改め」を呼びかけて叫んだ人間は、
 彼以外に記録上存在しません。記録に残っていない人で、
 荒れ野でシャウトしてた人がいたとしても、記録に残っていない時点で、アウトです。 
 なぜなら、ユダヤ教の教典でもある旧約聖書によれば・・・
          荒野のシャウト救世主の贖いの死などなど・・・
 預言されたこれらのプロセスを経て、
 創造主の「みことば」は異民族にも伝わり、
 全世界に広まって、創造主はユダヤ人じゃない人達も「我が民」と呼び、
 ユダヤ人じゃない人達も創造主の事を「我が神」と呼ぶ様になると、
 書かれていますから…記録にに残ってないなんて、問題外なんです。
 『預言のシャウト』は預言実現リレーの循環軌道に含まれてないと、本物ではありえません。
 
なので、唯一荒野シャウトをしていたバプテスマのヨハネが、
イホシュアをはっきりとメシアだと宣言し、そのメシアを、ゼベダイのヨハネが、
「メシアこそが、天地創造の実働者たる『ことば』である」と言っています。
ダブル・ヨハネが、このモーセ五書の暗号を、前から、そして後ろから・・・
二つのベクトルで証明し、タイトルがこうなっているのは、
創造主の英知の書たる旧約聖書の神秘は、
「初めのことば」五つ全部が示すイホシュアの存在こそが、
最初にあるべき「解析フィルター」、
つ・ま・り、イホシュアこそが絶対必要な大前提で、
イホシュアというフィルターがなければ、
父なる創造主の御心を知ることはできないんだってことではないでしょうか?


イホシュア=キリストは、創造主の神秘を解明するカギ
 
 <がっつり余談>
 この預言がイホシュアを指示していると証した二人が「ヨハネ」であるということも、
 まさに妙なる創造主の業です。
 ヨハネは、本来ヨッハナーンという名前なんですが、
 これは、ヘブル語で「主は恵み深い」という意味です。さきに生れた「深い恵み」と、
 後から生まれた「深い恵み」がイホシュアをメシアとして証明しています。
 私は、このこと自体、絶対唯一無二の創造主、
 そのとこしえなる最高の恵みが何なのかを雄弁に物語っていると思います。
 聖書に出て来るエピソードは、必ず、
 起こるべき時に、起こるべき場所で、起こるべきように、起こるべき人を通して起こっています。
 名前に注目して聖書を読むと、聖書がまさに「真理の書」であることが、よくわかります。
 だから、私は救い主を「イエス」と呼ぶのをやめたのです。

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<目次>
 1-4 ことば

 2-2 ツェレム

【モーセ五書タイトルの謎】2.エロヒームの正体

2.エロヒームの正体

初めに荒野で名を呼んだのは、ことば...だったら、どうなるの?


 初めに・・・というリズムに私も乗っかることにして、
 あらかじめお断りしておきますが・・・ 結局同じことを言っているのです。
 「初めに荒野で呼ばれた名は、ことば」であっても
 「初めに荒野で名を呼んだのは、ことば」であっても・・・
 結論は同じです。これらに託された意味は、
 イホシュア(イエス)こそが創造主の御子であり、
 御子なしで、創造主の御心はわからないし、
 創造主が私たち人間に与えられた「深い恵み」は
 過去も未来も御子によってのみもたらされる・・・
 御子こそ生命・・・ということなんです。


<我々・・・>
【創世記1:26より】 神は言われた。「我々にかたどって、我々に似せて、人を造ろう---【創世記3:22】 主なる神は言われた。 「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。 今は手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」


 我々?あれ?
 絶体神、唯一神なんじゃなかったの?
 神さまって孤独だから、性格が分裂したとか?


 私が高校生の時に抱いた疑問です。今改めて考えると・・・ウケるwww
 当時の私には結局、この問いに対する答えは導き出せず、
 取り合えず、この疑問をわきに置いて、
 私は結局、理屈と哲学で聖書の御言を理解するようになりました。


<うら若き私の神様>
 若い時の私の神様定義とは・・・

  • 形がない、エネルギー生命体。
  • 絶対白いひげのじいさんではない。
  • 体や形がないから永遠の存在。
 これは、スーパー・アバ(父)たる創造主の定義として、間違っていません。
 三つ目の「体や形がないから」というところに、落とし穴があるってだけです(アカンやん)。


 私の理解では、創世記1:26で「私たちとおんなじかたちに、人間をつくろう」とおっしゃった、
 ‟かたち”は、ラテン系語学で読むと「imagine」イマジネ:イメージ だったので、
 概念的なこと・・・つまり霊的な部分で似せて作られたって意味だと捉えたのです。
 イマジネの他に、ラテン語には「forma」フォルマという言葉があり、
 これが、物理的な形を指す言葉なんです。
 イマジネは、どちらかというと「印象」という意味ですので、そこには「思い」が絡みます。
 形あるものは必ず朽ちる。間違っちゃあいません。これも創造主の摂理であり真理です。
 ただ、この世の全てを創造された、創造主ですから、
 当然、この摂理から外れることもあるのです。
 (なんて言っても、「摂理」の特許権所有者ですから・・・。)
 「朽ちない形」だってドンと来いです。

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 2-2 ツェレム

Ryo Discovers the World 最終回 五妃街と神農街

Rei and Ryo's Taiwan review, the last chapter. 一ヶ月に渡ってお送りした、台湾シリーズの最終回です。