母親たちの反応
: 無関心と、利己主義の暴力
多くの方が、L君の母親はともかく
息子と一緒に学校に行くことを選択したはずの
子供たちの母親がこのような反応をしたことに
驚かれたと思います。
母親たちの反応
イジメ外伝1
実は、10月25日に私の息子が犠牲になった事件が起きましたが
これには
前日にプロローグとなる事件が起きていたのです。
10月24日月曜日
彼らは、学校で、L君を責めたのです。
6人のうち、4人が一緒に学校に行くことになり、
あとの二人は友達とは言い難い関係でしたので、
それぞれ別個に行くことになりました。
しかし、息子以外の子は、みな
L君とあともう一人が、一緒に行くことになっていると
思ったらしく、
あともう一人を、L君が独りぼっちにした、と勘違い
L君を責め立ててしまったのです。
これも親が子供たちへの配慮や、布石が足りなかったがために
子供たちを非行へと駆り立ててしまった例でした。
つまり、L君の母親が犯した過ちと同じなのです。
彼女たちの言いたいことは・・・
棟方が
L君とL君の母親を孤立させる行為に
彼女たちを巻き込んだ・・・
そのせいで、子供たちが心無い行為を行ってしまった。
つまり、
彼女たちの子供たちの行いも
L君や、三年生男子たちの行いも
私が招いたことであり、
息子が遭遇した不運も私の自業自得に過ぎず
もう、私や息子に関わりたくない。
・・・そういうことが言いたいのでしょう。
そしてなにより、
自分たちの子供は、私の息子一人だけを置いて
さっさと逃げてしまったことを
恥じる気持ちもあったのでしょう。
「集合時間が変更になっただけかと思ってた」だの
(彼女たちは明らかに、「M君といっしょにいく」と返答しています)
苦しい言い訳をしてきました。
L君を仲間外れにするのはよくない、と思ったなら
そのように、意見してこればよいのではないでしょうか?
自分のところは、L君と一緒にいくとか
L君も誘ってあげたら?と話す人はいたでしょうか?
まったく、ありませんでした。
関わりたくない
その気持ちは、仕方ないと思います。
でも、私はいつも思うのです。
「傷ついた人」に寄り添うのではなく、
「自分の子供さえ難を逃れれば良い」
「巻き込まれたくない」という利己主義を行いながら
社会に対して「子供たちを守ってほしい。」と要求するのは
勝手ではないでしょうか。
個人の経験の一つ一つが社会を形成するのに。
今の子供たちや社会全体が抱える問題に
無関係な人間など、いないのです。
責任を果たさない人間に、自由はもたらされません。
L君と接点を深く持っていた唯一のお友達であるS君の母親は
事件のあと、L君の母親と話しに行きました。
でも、そのことを私に告げては来ました。
私は相手の言い分を知りたがったので、尋ねましたが
話の内容を私に「こう言ってたよ。」と間を取り持つこともなく
「言い分がずいぶんと食い違っているので、驚きました。」
それ以降、意図的に私のメールを無視しています。
(まぁ、二通ほどしか、そのあとも出していませんが)
ここでも、「議論のできない日本人」です。
L君の問題を、コミュニティ全体の問題として受け止め
一緒に向き合い
同じ共同体で生活する人たち全体の幸福のために
自分たちにできることを、能動的に模索することもなく
ただひたすら、
誰かが自分たちの安全と、健全な人間関係をもたらしてくれる
と、ここでも、サービスを要求しているのにすぎません。
貢献しないのに、奉仕を要求するのは
本当に厚かましいことです。
L君が息子にしたことを「他人事」とするなら
自分たちはL君と一緒に登校することを選択しなかった、
その事実にこそ、着目するべきだったのではないでしょうか。
本当であれば、L君がしたことを、それはそれで受け止めて
そして、それでもL君を責めないという選択へと
子供たちへ導く。それが、道徳の教育です。
家庭が担うべき最も重要な仁義の教育なのです。
傷ついた息子と私に寄り添うことで
L君が息子を尊重する気持ちに立ち返るまでの
時間を稼ぐことになるのです。
当家はそれを選択したからこそ、L君と距離を置いたのは
朝の登校について、だけ。
下校は、楽しく仲良く一緒に帰っていらっしゃい。
そう申し伝えてありました。
このような、最低限の礼節も守れない上に
今度は、息子を意図的に孤立させ、
子供たちをけしかけて、攻撃するなど
まっとうな大人のすることではありません。
本当に、恥を知るべきです。
今の日本の世の中の最大の闇は
アメリカの軍事基地問題も、郊外のイジメ問題もすべて根底には
同じ問題が存在しているのです。
貢献しないのに、奉仕を要求する。
利己主義。
それこそが、諸悪の根源です。
利己主義とは無縁でありたい
そう願う、私と私の息子からはかけ離れた思考回路です。
そもそも、共存など、無理だったのでしょう。
親がプロの親にならなくては
親が学ばなくては
子供たちが本当に幸せになる社会は訪れません。
子供を天使として、子供の無実を信じるだけでは
子供を幸せにはできないのです。
最後に、息子のこの時の息子の思いを
書き綴りたいと思います。
「おい、お前ら!」と怖い声で話しかけてきた
三年生男子は、O君から(警察での証言によると)事情をきいていたので
ある程度、息子を特定して話しかけてはいましたが
名前を呼んだわけではありません。
息子が受けてたったのです。
なぜ、受けて立ったのか。
それはまさに、その三年生男子の声が
怖い声だったので、自分が答えず
ほかのお友達の方に行ったら
何をされるかわからない。
傷つくなら、自分でなければならない・・・。
そう思ったそうです。
そして、自分を取り囲む子供たちのなかに
L君の姿があったとき
とても悲しかった、そうです。
これを書いている今も
この時の息子の気持ちを思うと
涙が止まりません。
息子のこの思いを、L君やほかのお友達の母親に話しても
きっと彼女たちにしてみれば、
息子が優しく、勇気ある子供であればあるほど
気に入らないのでしょう。
だからこそ、のちに、彼らは加害者となって
息子を傷つけるに至ったのです。
民事で訴えることも考えました。
嫌がらせの事実は、証拠もありますし
相手も認めています。
だから、理屈としては、精神的障害に対する損害賠償が
成立はする、と思います。
なにせ7歳の子供に対する嫌がらせですし。
しかし、息子の崇高な行いに対して
彼らの薄汚いお金で解決するのは、
道徳にかなわないと思いました。
そして、なにより、またここでも
子供には罪はないのですから。
転校も考えました。
しかし、何一つとして悪いことをしていないのに
私たちがリスクを負うのは、どうかと思いました。
転校するなら、彼らがすべきなのではないでしょうか。
今の私に課せられた試練は
彼らをどうやって赦すかです。
息子を手本に、その道を模索していきたいと思います。
おわり
<<前の記事
<いじめ事件INDEX>
1. 事件
2. L君との一年半…
3. 登校グループ
4. 疑惑と学校の対応
5. 警察での聴取と真相
6. 母親たちの反応
7. 私の考え
「りんじゅのさと」は絵本作家 棟方玲宇(むなかたれい)のオフィシャル・ウェブサイトです。 「玲樹(りんじゅ)」とは歌人でもある棟方のペンネームです。 Welcome to the official website of Rei Munakata, a children's book creator.
2017年2月14日火曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
Ryo Discovers the World 最終回 五妃街と神農街
Rei and Ryo's Taiwan review, the last chapter. 一ヶ月に渡ってお送りした、台湾シリーズの最終回です。
-
べレシート〜はじめに 大石教会の金井牧師が、みっちり神学を教えてくださる「金井塾」で 金井先生が「モーセ五書は全部、その文章の初めの文章から抜粋された文言が タイトルになってる」と教えられ… 「へぇ〜」っと思った私 創世記が「べレシート」(ヘブル語...
-
<ツェレム> ヘブル語で聖書を読むと、「かたち」と訳された言葉は「ツェレム」(צֶלֶם)です。 ツェレムは、「型」と言う意味です。 冠詞がついてベツェレム・エロヒームという言葉で、 ツェレムの意味は、イメージ、像、型に流し込むこと・・・です。 創造主...
-
書きます 「夜の訪問者」とはJ.B. プリースリー作の戯曲で、原題を "An Inspector Calls" ~ある刑事の来訪~と言います。先日BBCで放送された映像化ドラマによってはじめてこの作品をビジュアルで体感した、ムナカタですが、衝撃的でした。 ...
0 件のコメント:
コメントを投稿