2018年4月4日水曜日

【モーセ五書タイトルの謎】<ことば>

〈ことば〉


 【ヨハネ1:1-3】 初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。


 先ほどから私が引用してますヨハネの福音書:
 この福音書の著者のヨハネは「ゼベダイの子ヨハネ」でバプテスマのヨハネとは別人です。
 ゼベダイの子ヨハネは、イホシュア(イエス)の弟子の一人です。
 この部分で、何を言いたいか…
「ことば」とはイホシュア(イエス)のことだと証しているのです。
 創造主はあらゆるものを「ことば」…
 デジタル人間のわたしはこれを「コマンド」のようなものだと解釈しています。
 創世記を見ると、「ひかりあれ」「〜せよ」「〜となれ」…
 と、すべてが「コマンド(ことば)」によって創造されています。
 ゼベダイの子ヨハネは、この世を創られた「創造主」とナザレのイホシュアが同じ存在であり、
 この世のすべてを創造した「コマンド」…
 つまり「ことば」がイホシュア自身であると言っています。


∴てなわけで…
初めに、荒野で呼ばれた名は、ことば...


 モーセ五書のタイトルをこのように並べるなら、
 ナザレのイホシュア(イエス)の事を、預言してるという事になります。
 聖書は創造主の英知を表した書物です。
 タイトルのメッセージが「ことば」たるイホシュアを指し示しているなら、
 聖書に示されている、創造主の英知を理解するには、
 メシアたるイホシュアの存在が不可欠である、ということを表しています。


 バプテスマのヨハネの様に荒野で「悔い改め」を呼びかけて叫んだ人間は、
 彼以外に記録上存在しません。記録に残っていない人で、
 荒れ野でシャウトしてた人がいたとしても、記録に残っていない時点で、アウトです。 
 なぜなら、ユダヤ教の教典でもある旧約聖書によれば・・・
          荒野のシャウト、救世主の贖いの死などなど・・・
 預言されたこれらのプロセスを経て、
 創造主の「みことば」は異民族にも伝わり、
 全世界に広まって、創造主はユダヤ人じゃない人達も「我が民」と呼び、
 ユダヤ人じゃない人達も創造主の事を「我が神」と呼ぶ様になると、
 書かれていますから…記録にに残ってないなんて、問題外なんです。
 『預言のシャウト』は預言実現リレーの循環軌道に含まれてないと、本物ではありえません。
 
なので、唯一荒野シャウトをしていたバプテスマのヨハネが、
イホシュアをはっきりとメシアだと宣言し、そのメシアを、ゼベダイのヨハネが、
「メシアこそが、天地創造の実働者たる『ことば』である」と言っています。
ダブル・ヨハネが、このモーセ五書の暗号を、前から、そして後ろから・・・
二つのベクトルで証明し、タイトルがこうなっているのは、
創造主の英知の書たる旧約聖書の神秘は、
「初めのことば」五つ全部が示すイホシュアの存在こそが、
最初にあるべき「解析フィルター」、
つ・ま・り、イホシュアこそが絶対必要な大前提で、
イホシュアというフィルターがなければ、
父なる創造主の御心を知ることはできないんだってことではないでしょうか?


イホシュア=キリストは、創造主の神秘を解明するカギ
 
 <がっつり余談>
 この預言がイホシュアを指示していると証した二人が「ヨハネ」であるということも、
 まさに妙なる創造主の業です。
 ヨハネは、本来ヨッハナーンという名前なんですが、
 これは、ヘブル語で「主は恵み深い」という意味です。さきに生れた「深い恵み」と、
 後から生まれた「深い恵み」がイホシュアをメシアとして証明しています。
 私は、このこと自体、絶対唯一無二の創造主、
 そのとこしえなる最高の恵みが何なのかを雄弁に物語っていると思います。
 聖書に出て来るエピソードは、必ず、
 起こるべき時に、起こるべき場所で、起こるべきように、起こるべき人を通して起こっています。
 名前に注目して聖書を読むと、聖書がまさに「真理の書」であることが、よくわかります。
 だから、私は救い主を「イエス」と呼ぶのをやめたのです。

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<目次>
 1-4 ことば

 2-2 ツェレム

【モーセ五書タイトルの謎】2.エロヒームの正体

2.エロヒームの正体

初めに荒野で名を呼んだのは、ことば...だったら、どうなるの?


 初めに・・・というリズムに私も乗っかることにして、
 あらかじめお断りしておきますが・・・ 結局同じことを言っているのです。
 「初めに荒野で呼ばれた名は、ことば」であっても
 「初めに荒野で名を呼んだのは、ことば」であっても・・・
 結論は同じです。これらに託された意味は、
 イホシュア(イエス)こそが創造主の御子であり、
 御子なしで、創造主の御心はわからないし、
 創造主が私たち人間に与えられた「深い恵み」は
 過去も未来も御子によってのみもたらされる・・・
 御子こそ生命・・・ということなんです。


<我々・・・>
【創世記1:26より】 神は言われた。「我々にかたどって、我々に似せて、人を造ろう---【創世記3:22】 主なる神は言われた。 「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。 今は手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」


 我々?あれ?
 絶体神、唯一神なんじゃなかったの?
 神さまって孤独だから、性格が分裂したとか?


 私が高校生の時に抱いた疑問です。今改めて考えると・・・ウケるwww
 当時の私には結局、この問いに対する答えは導き出せず、
 取り合えず、この疑問をわきに置いて、
 私は結局、理屈と哲学で聖書の御言を理解するようになりました。


<うら若き私の神様>
 若い時の私の神様定義とは・・・

  • 形がない、エネルギー生命体。
  • 絶対白いひげのじいさんではない。
  • 体や形がないから永遠の存在。
 これは、スーパー・アバ(父)たる創造主の定義として、間違っていません。
 三つ目の「体や形がないから」というところに、落とし穴があるってだけです(アカンやん)。


 私の理解では、創世記1:26で「私たちとおんなじかたちに、人間をつくろう」とおっしゃった、
 ‟かたち”は、ラテン系語学で読むと「imagine」イマジネ:イメージ だったので、
 概念的なこと・・・つまり霊的な部分で似せて作られたって意味だと捉えたのです。
 イマジネの他に、ラテン語には「forma」フォルマという言葉があり、
 これが、物理的な形を指す言葉なんです。
 イマジネは、どちらかというと「印象」という意味ですので、そこには「思い」が絡みます。
 形あるものは必ず朽ちる。間違っちゃあいません。これも創造主の摂理であり真理です。
 ただ、この世の全てを創造された、創造主ですから、
 当然、この摂理から外れることもあるのです。
 (なんて言っても、「摂理」の特許権所有者ですから・・・。)
 「朽ちない形」だってドンと来いです。

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2-2 ツェレム

<目次>
 1-4 ことば

 2-2 ツェレム

【モーセ五書タイトルの謎】最終回 ツェレム

<ツェレム>
 ヘブル語で聖書を読むと、「かたち」と訳された言葉は「ツェレム」(צֶלֶם)です。
 ツェレムは、「型」と言う意味です。
 冠詞がついてベツェレム・エロヒームという言葉で、
 ツェレムの意味は、イメージ、像、型に流し込むこと・・・です。
 創造主は、アーダーム(ちり 土くれ אָדָם)を創る際、
 土くれをコネコネして、「私たちにかたどってつくろう!」とおっしゃったのです。
 そして象った(かたどった)ツェレムに、
 ふぅっと、息吹「ネシャマー」を吹きかけられて出来上がったのが、人間という生き物です。
 つまり、霊的なところは、むしろネシャマー、
 つまり創造主の息吹によってもたらされたし…、
 ちょっとまてよ、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記8:21)と
 創造主も告白しているように、霊的なところは、似せて作られたんじゃない!
 (とんでもない)
 絶対善である創造主と、まったく同じ霊に作られたわけではないのです。
 ということは・・・やっぱり、そのまんま、概念やらなんやらではなく、
 みてくれの形が、創造主のツェレム(形)でつくられたってことになります。


<足音は足でたてるもんだ>
 そうやって考えて見ると、創造主に形があることは、
 いろんなところで明記されています。たとえば・・・


【創世記3:8から】
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえた。


 そのほかにも、ヤコブと相撲をとったり(負けかけてるし・・ 創世記32:25~31)
 旧約の時代には、創造主に形はないと思っていましたが、
 どうやら「主なる神」と表される時に、創造主はがっつり、
 マッチョな肉体をもって働かれることがわかります。


<で、どういうツェレムなんよ>
 もちろん、頭があって、首があって、胴体があって・・・
 という形のことでもありますが・・・
 実は、もう一つ似せられた「ツェレム」があるのです。
 ここで、エロヒームの謎なんです。
 どうして「我々」なんだろうってことなんです。
 私たちが似せてつくられたツェレムは、この「我々」という型に似せられたのです。
 だって「おまえに似せて」ではないのですから。


 さきにネタバレしますが、私が言いたいツェルムとは、
 三位一体の神の中に行きかう「関わり」「交わり」のことで、
 これに似せて、人間がつくられたってことです。
 しかし、この御言をご覧ください。


【Iテモテ6:16】唯一不死の存在、近寄りがたい光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。


 うら若き時の私の「神様定義」でご紹介しました。
  • 形がない、エネルギー生命体。
  • 絶対白いひげのじいさんではない。
  • 体や形がないから永遠の存在。


 これは、正しいのです(ほらやっぱり)。形があるなら、見えますから。
 メシアが人の子として生まれてくるのは、
 「神を見たい」という人間の切実な思いに応えてのことです。
 父なる神、御子なる神、そして聖霊なる神は、
 三位一体で別々の「質」をもって存在してるのですが、
 形を持っているのは、御子・・・「主なる神」と呼ばれた、御子です。
 もし、外見要素だけがかたどられたなら、この部分のセリフは
 「おい、御子、おまえは男前やから、おまえに似せてつくったろ。」となるはず!
 でも、このセリフはやっぱり!「われわれに似せて」ベツェレム・エロヒームなんです。
 おっと、忘れていました!
 エロヒームとは、「神」エロアの複数形です。「三位一体の型」なんです。
 三位一体の神の内側は・・・最高です!
 三位の間を行きかうのは「愛」・・・
 愛が交わされ、関わり、完全なる調和が在ります。これが、三位一体の神の本質です。
 私たちの型となったツェレムは、この「交わり」そのものだったんです。

<名を呼ぶ “ことば”>
∴ってなわけで
    初めに荒野で名を呼んだのは、ことば …
エロヒームの正体を表している。


唯一絶対の神が、唯一でありながら、単体ではなく、
創造の時に、父なる神の御心に従って「~あれ」と、ことばを発した存在が在る・・・
それが「主なる神」またの名を「ことば」っていうことですね。
 ということは、荒野とは「無」の状態を意味するのでしょう。
 そして、これらの情報は、やっぱり、この福音書の聖句に行きつきます。


【ヨハネ1:1-3】
 初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。
 言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
 万物は言によって成った。
 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。


 私の個人的な印象ですが、
 ユダヤ教の人々は、やっぱり今も昔も、創造主が三位一体である…とは
 捉えていないと思うんです。
「我々」が指すのは父なる神ご自身と、天使たちだと、捉えているかもしれないですし、
 偉い存在だから、単に人数増やしてみただけ、って思っているのか…
 私にははっきりとは、わかりませんが…。


 「三位一体」という言葉は実は一度も聖書で使われていません。
 「三位一体」は、イホシュアがその生涯を通して浮き彫りにした真理です。
 何度か、ご自分が創造の時にヤッウェーと共に在ったと証言し、
 聖霊が独立したペルソナを持つことも表現しています。
 例えば
 【マルコ3:28-29】天の御父やご自身に対する冒涜は赦されるけれど、
 聖霊に対する冒涜は絶対赦されない永遠の罪だと述べています。
 旧約聖書はユダヤ教の経典でもあり、モーセ五書は最重要文書です。
 しかし、エロヒームが三位一体を表す「一人称複数形代名詞」でないなら、
 ユダヤ人にとってモーセ五書のこのタイトルは、
 この二つ目の語列においても、なんら預言性がない事になります。


 エロヒームの世界に「偶然」は存在しません。
 このタイトルがたまたまなわけがないのです。
 エロヒームはこのようにして、様々な事象を通して「我在る」と私達に呼びかけ、
 私達人間がご自分の「ツェレム」としてつくられたことを思い出させようとして下さっています。
 応えていないのは、人間の方なのですね…

あーもったいない!
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<目次>
 1-4 ことば

 2-2 ツェレム

2018年3月5日月曜日

Finished knitting a scarf.

Ryo Ryo Loves knitting. He has just finished knitting a scarf for his basketball coach.
Due to his changing the school, he needs to sign off from the basketball team. A little farewell present for a very devoted coach.

2018年1月9日火曜日

教会はキリストの体じゃない!

いっつも 教会という言葉に違和感がありました。

コロサイ1:24
24 いま私は、あなたがたのために苦しむことも、私の務めとして喜んでいます。キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの残された部分を担っているからです。

ここで言われている「教会」とは、今私たちが教会と呼んでいるものを指しているのだろうか?
いま私たちが「教会」と呼んでいる組織は、元をたどれば、プロテスタントも含めて、カトリック教会です。カトリックの基礎をつくったのは、コンスタンティアヌス帝です。コンスタンティアヌス帝はミトラ教徒で、クリスチャンではありませんでした。
これについては、私のこの記事をご覧ください。
ですから、今教会で、使徒言行録にあるようなクリスチャンの姿がないのは、当たり前のことだと言えます。

もし、「教会」がキリストの体なのならば、この組織団体は、「教会」と呼ばれるべきではない、と思っていました。

でも、ある日、聖霊の声が言いました。
「教会でいいんだよ。Church wrong word!」
教会でいい、とおっしゃる一方で、今度は英語で Church チャーチという言葉が間違っていると。

私は混乱しました。
それで、瞑想に入りました。言葉の旅です。
~~~

Churchという英単語はギリシャ語のクリオス Kurios から派生しています。
これは、権力者としての「頭」の集まり、という意味です。
ところが、ギリシャ語の聖書を見てみると、教会がキリストの体だというところにはクリオスという言葉は使われず、エクレシアという言葉が使われています。

エクレシアは「キリストに召された人たち」という意味です。
キリストに召された人たちが、キリストを頭とする、キリストの体と表現されるのは、いかにもしっくりします。それぞれが、与えられた機能を果たすのです。
クリオスは頭だらけです。
頭はキリストだけであるべきです。

Churchはキリストの体ではない。これではっきりしました。
でも、「教会でいいんだよ」という声の意味が今度はわかりませんでした。

となりで、二歳児の生徒が、おままごとのお野菜を箱の中にお片付けしていました。
そして、突如
教会の「教」という字が目についたのです。
教の「教」という字は、宗教の「教」です。仏教、イスラム教、ヒンドゥー教・・・この「教」です。そうか、教会は「教会」でいいんだ。キリストを小さな宗教の箱に標本化していれて、喜んでいる。宗教の会。

そうですね、アバ 教会でいいですね。
私なら、エクレシアを「教会」とは訳さない。「信会」
御名を恐れる者のあつまり。私なら「信会」と訳します。

教会はいわば外枠ですから、教会が必ずしも、エクレシアであるとは限らないのと同じように、教会ならば、キリストとまったく関わりがないかと言えば、それもそうとは限らないです。聖霊を確かに受け取っておられるかたもいらっしゃるでしょう。

それに、教会の流れの始点が、キリストではないとしても、ローマが権力に任せて、あらゆる聖書学資料をせしめたわけですから、データはすべて、教会が握っているのです。ペテロがキリストから継承し、受け継がれていった真実のエクレシアは、権力を手にしたこともなければ、ずっと虐げられてきました。エクレシアの頼みは、聖霊だけだったにちがいありません。今の私と同じです。

クリオスが文字通り、知識をストックしているなら、知識を求めるなら、教会を頼るしかありません。
キリストは万能です。たとえご自分と関わりのない組織であっても、各個人レベルではキリストと関わりない人などこの世には存在しないわけですから、キリストとつながった教会や、聖職者もいるでしょう。
なにより、キリストという言葉の元、集まってきた彼らがキリストを強く求めていることには変わりありません。
そんな彼らを、キリストが見捨てるわけも、ありません。

ずっと、呼んでいらっしゃると思います。

ただ、私は聖霊だけを頼りにする信徒たちにも、キリストは警鐘をならしていると思います。癒せば聖霊の働きか・・・いいえ、悪魔にも癒しは行えます。奇跡は悪魔からも起きるのです。
癒しの奇跡=聖霊の働き これは違います。
たとえ、聖霊の働きによって人を癒したとしても、新生に導くことができたとしても、浅はかな知識では、人を「聖化」へ導くことはできません。それは教師の仕事です。


最近の聖霊派の使徒たちのなかには「私たちはキリストによって新約の下にあるから、旧約は無視して良い」などという人もいました。 浅はかな言葉です。
この傾向は、カルヴァンからおこった傾向です。ユダヤを貶めることで、キリストとは直接つながっていない自分たちヨーロッパ人を正当化しようとしたのです。
あまりにも、浅はかです。
この傾向が、のちのナチスのユダヤ人迫害につながることは、言うまでもありません。

時々声を大きくして言わなくてはいけません。

キリストは地上にあるとき、ユダヤ人として生きたのです!
ユダヤの崇める「存在」が、この世の全てを創造したことを証するために
わざわざ あえて ユダヤ人に生まれられたのです!
旧約を無視していいなど、そんな人はクリスチャンじゃない!

キリストが「聖書はすべて真実であり正しい」とおっしゃった「聖書」は旧約聖書を含むユダヤ経典の聖書です。今のキリスト教徒が手にしている旧約聖書は、先ほど言ったコンスタンティヌス帝が組織した教会によって編纂されていますし、おまけに、プロテスタントはそれをさらに削ったものを聖典としています。
ただですら、私たちの手に届かないところに、「真実の書物」の一部があるのでしょうのに、私たちの手にかろうじて残った旧約を無視などしたら、真理から遠のくばかりです。

教会からつまみ出され、教会から外れているから 真実の使徒なのか
とんでもありません。
教会は、それぞれの努力でエクレシアである努力をし、聖霊の働きを再確認するべきだとも思いますが、奇術師のように癒しにばかりこだわり、たいした知識もないのに教会を批判する信徒たちも魂を扱う責任に目覚めなければ、聖霊を侮辱しているにすぎません。
聖霊を侮辱する行為には、肉の処罰があります。

癒しの力がなければ、ただの負け犬の遠吠えでしょうから、私はこの批判を口にするのを待ちました。私も今では、癒しの業を行う器としてキリストに選ばれ、癒します。悪霊も払います。

聖霊を求めなくてはいけません。
聖霊を得て癒しても、それが聖別された保証とは限らないのです。悪魔も癒すことを忘れてはいけません。悪魔の道具になってはいけません。

小さなキリストたるクリスチャンにならなくては、いけません。
キリストは「私のようで在りなさい」とおっしゃったのですから。

2017年12月10日日曜日

クリスチャンミニストリー「いどばたのおしゃべり」 Vol1 マリアの視点で真実を見る【処女受胎は真実】



イエスを信じない人にとって、聖書に書かれていることは、ただの神話にすぎないでしょう。



私たちイエスの聖徒にしてみれば、イエスの命令に従うことはごく当然のことなんです。なぜなら、この世界を創造した創造主の命令なのですから。

でも、信じない人々にしてみれば、その「創造物語」にしても、イエスの数々の奇跡にしても、それらはみな、「神話」あるいは、「嘘」にすぎないのです。



今はちょうど、降誕節

イエスがこの地上に人の子としてお生まれになったことを、お祝いする時と、教会組織が定めた時節です。



イエス誕生の逸話はあまりにも有名です。



ルカによる福音書 1章30節-34節

30 すると、天使が言いました。「こわがらなくてもいいのです、マリヤ。神様があなたにすばらしいことをしてくださるのです。 31 あなたはみごもって、男の子を産みます。その子を『イエス』と名づけなさい。 32 彼は非常に偉大な人になり、神の子と呼ばれます。神である主は、その子に先祖ダビデの王座をお与えになります。 33 彼は永遠にイスラエルを治め、その国はいつまでも続くのです。」 34 マリヤは尋ねました。「どうして私に子どもができましょう。まだ結婚もしておりませんのに。」


男性経験がないマリアがみごもるという、受胎告知です。



神を信じるものは言います。「神様なんだから、これくらいできる。だからこれは真実」

でも、神を信じない人々は言うでしょう「処女はみごもらない。だからこれは嘘。」



この世の科学で考えたとき、正しいのは後者です。

しかし、本当にそれは真実でしょうか。



私もかく言いつつ、この「処女受胎」は「虚構」だと思っていました。

未婚のあいだに、男性と交渉をもってみごもったマリアの処世術。賢いじゃない!

そう思っていたのです。

当時のユダヤ社会で未婚の母になるなどと、とんでもないことなんです。

タブーの中のタブー。リンチを受けて、石を投げられゆっくりと殺されるかもしれないのです。

だから、ヨゼフが彼女と結婚するかしないかは、彼女にとって命がけの勝負です。

「処女だけど、神様の子供をみごもった。」ぐらいの嘘をついたって、不思議はないのです。



しかし、信仰に立ち返って、信仰の目で見た時、全く違う、マリアの視点が見えてきたのです。



私は毎日、イエスの十字架の犠牲を思いながら祈ります。

私は劇作家でもあるので、祈るとき、かなり立体的にそのシーンを頭の中で再現しつつ、そこに臨場するかのように想像するのです。

いつものように、私はイエスの血まみれの足元に居ました。

「イエス様、あなたの真実を、救われるべき魂に伝えるにはどうしたらいいでしょう?」

すると、イエスは十字架の上でこうおっしゃったのです。

「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」(ヨハネ19:26)

私ははっとして、振り向きました。

そこには、イエスの母マリアが、苦渋の涙を流しながら立ちすくみ、イエスを仰ぎ見ています。



この姿を通して、私は真実に気付かされました。



イエスの処刑は、ローマ側の記録にも残っています。

そして、この処刑の場に、母親のマリアが立ち会っていることは、



マタイ27:55-56

マルコ15:40

ヨハネ19:25-27



に記されています。

その場に母マリアがいた。黙って見守っていた。

ありえない!!



私は思いました。

黙って見守っていた?。。。そんなことあるはずがない!



この当時のユダヤはローマ帝国の占領下にありました。

ですから、イエスは逮捕されて、ユダヤ側の裁判を受けたあと、ローマ側に引き渡されたのです。ユダヤ側の裁判は公正からは程遠いものでした。しかし、ローマ側の裁判で、ピラトはイエスを見てこう言いました。「この男に罪は見受けられない。」

彼らは、イエスを許そうとしていたのです。

その場にマリアも立ち会っているのです。

母親として、もし処女受胎が虚言だったなら、そこで叫んでいたはずです。



「全部、嘘だったんです!」



自分の嘘を真に受け、神の子供だと信じ込んだ息子が、なんだか宣教活動をして大ごとになったけど、息子は気がおかしいだけなんです。

この時にマリアがそう叫んでいたら、ユダヤ側もイエスの権威を失墜させれて用は果たされ、処刑は免れたかもしれません。

おそらく、もし処女受胎が嘘だったなら、そう叫ばずにはいられないはずです。



マリアの母性に問題があり、子供を見捨てるほどに愛がなかったなら、その場にすらいなかったハズなのです。



でも、彼女は叫ばず、泣きながら、一部始終を見守ったのです。

これは無言の証です。

二千年の時を超えて、母親の愛という普遍の真理が私たちに叫ぶ真理の証です。処女受胎が真実であり、イエスの受難が神の御心あったからこそ、彼女は黙って見守ったのです。そうするしかなかったのです。

処女受胎を告知された時の彼女の言葉と、ゲッセマネの園で血の汗をながされたイエスの言葉とが同じなのですが、神の前にひざまずき、神の愛を信頼し、希望をもってただひたすら従う「強い信仰」と言う名の愛が、この言葉に溢れ出ています。



「御心通りになりますように。」


Ryo Discovers the World 最終回 五妃街と神農街

Rei and Ryo's Taiwan review, the last chapter. 一ヶ月に渡ってお送りした、台湾シリーズの最終回です。