先日、お買い物していて
元町の商店街で見つけた Olive and Vinegarというお店
Olive and Vinegar 元町店
オリーブオイルやビネガーが量り売りで買えるんです。
そこでこんなものを買ってみました。
通常は、パンの上オリーブオイルとかけて
ブルスケッタを作るための、即席調味料
フリーズドライのトマトや、ガーリック、オレガノなどのスパイスと
ブレンドされています
これを使って、こんなパスタを作りました。
レシピはクックパッドへどうぞ・・・
Bruschettaシーズニングのご購入は、Olive & Vinegar のウェブストアの
こちらへ
ちなみに、私が使ったのは Originale 「おりじなる」です。
「りんじゅのさと」は絵本作家 棟方玲宇(むなかたれい)のオフィシャル・ウェブサイトです。 「玲樹(りんじゅ)」とは歌人でもある棟方のペンネームです。 Welcome to the official website of Rei Munakata, a children's book creator.
2018年12月8日土曜日
2018年12月1日土曜日
魔人が出てきて、脱スランプ?
さぁ、そろそろスランプから抜け出さねば!
I have to start moving.
息子のRMです。
My son RM.
魔人ブウのつもりらしいです。
He is trying to be Genie.
単に、タートルネックを脱ごうとしているだけなのですが・・・
He is just taking off his turtleneck.
But he surely worked as Genie and got me out of the grey cloud.
For long time, I had to stay quiet. Because I was waiting for my spiritual guidance. Within this 1.5 year, lots of things changed.
I became a Christian and I was very religious.
I repent that.... Now I am Messianic. I got free from the spirit of religion.
But I decided not to write about Bible and Messiah here in this blog.
Here I write only about my creations, or parenting.
I made another blog spot, there I shall write about Messiah.
https://shalomitbook.blogspot.com/
I have to start moving.
息子のRMです。
My son RM.
魔人ブウのつもりらしいです。
He is trying to be Genie.
単に、タートルネックを脱ごうとしているだけなのですが・・・
He is just taking off his turtleneck.
But he surely worked as Genie and got me out of the grey cloud.
For long time, I had to stay quiet. Because I was waiting for my spiritual guidance. Within this 1.5 year, lots of things changed.
I became a Christian and I was very religious.
I repent that.... Now I am Messianic. I got free from the spirit of religion.
But I decided not to write about Bible and Messiah here in this blog.
Here I write only about my creations, or parenting.
I made another blog spot, there I shall write about Messiah.
https://shalomitbook.blogspot.com/
2018年10月12日金曜日
トマトで永久に美しく?
https://youtu.be/7Lmql3Ius7o
忙しいママの皆さん
神様は私達のためにすべてを用意してくださっています。
トマトも、ワンダーシェフも…
美しくあるのも、神様のため…
私が、体重調節をする時のお気に入りランチをご紹介します。
レシピはクックパッドに…
https://cookpad.com/recipe/5290432
さて、美しくあることは罪でしょうか?
「クリスチャン」という宗教に陥った時に
私は、自分の外見を非難される経験を何度かしました。
化粧をするのをやめようかと思ったり…
そもそも、クリスチャンになったとき
息子のイジメがきっかけだったのですが
その時は、自分がプロテスタントじゃなくてカトリック教徒で
さらに、母親でなければ、
間違いなく「出家」していたと思います。
でも、クリスチャンという宗教から脱皮して
「メシアニック」としてのアイデンティティを見出した時に
私の今の外見は、そもそも神様が与えたもので
それが試練を伴ったのは、
神様の「器」として磨かれるべきものだったからです。
化粧をやめたり
着るものをわざと粗末にしたりしたのは
結局
人を恐れたからです。
私は、神様ではなく、人からの評価をおそれたのです。
これは悪魔に迎合しているだけ…
聖書には美しい女性が何人も出て来ます。
でも、彼女たちは皆自らの美しさを誇るのではなく
すべて、神様に栄光をお返ししていました。
私も、美しくあることを恐れないようにしました。
神様のご栄光を示すために美しくあるのです。
忙しいママの皆さん
神様は私達のためにすべてを用意してくださっています。
トマトも、ワンダーシェフも…
美しくあるのも、神様のため…
私が、体重調節をする時のお気に入りランチをご紹介します。
レシピはクックパッドに…
https://cookpad.com/recipe/5290432
さて、美しくあることは罪でしょうか?
「クリスチャン」という宗教に陥った時に
私は、自分の外見を非難される経験を何度かしました。
化粧をするのをやめようかと思ったり…
そもそも、クリスチャンになったとき
息子のイジメがきっかけだったのですが
その時は、自分がプロテスタントじゃなくてカトリック教徒で
さらに、母親でなければ、
間違いなく「出家」していたと思います。
でも、クリスチャンという宗教から脱皮して
「メシアニック」としてのアイデンティティを見出した時に
私の今の外見は、そもそも神様が与えたもので
それが試練を伴ったのは、
神様の「器」として磨かれるべきものだったからです。
化粧をやめたり
着るものをわざと粗末にしたりしたのは
結局
人を恐れたからです。
私は、神様ではなく、人からの評価をおそれたのです。
これは悪魔に迎合しているだけ…
聖書には美しい女性が何人も出て来ます。
でも、彼女たちは皆自らの美しさを誇るのではなく
すべて、神様に栄光をお返ししていました。
私も、美しくあることを恐れないようにしました。
神様のご栄光を示すために美しくあるのです。
2018年10月9日火曜日
White Radish soup with rice
My lunch today.
White radish soup with rice.
Kansai (Western Japan) is famous for its particularity of food.
It is our popular topic over some cups of tea to discuss how particular Kansai food habit is.
For example, it is famous that each Kansai family own their Takoyaki cooker while Eastern Japanese rarely do. Kansai family mostly cooks Okonomiyaki at home, Easterns don't.
Sujikon is counted as one of the "soul foods" of Kansai people.
In my personal opinion, not many, but quite a few families stock sujikon.
What is sujikon? It is beef shin (tendon) stew seasoned by soy sauce and sugar. We often cook with konjak.
I like stocking sujikon myself.
Today's lunch is A bowl of rice served with sujikon in white radish soup (chicken soup base) . I added also red bell pepper and some Yuzu pepper.
I like stocking sujikon myself.
Today's lunch is A bowl of rice served with sujikon in white radish soup (chicken soup base) . I added also red bell pepper and some Yuzu pepper.
2018年9月17日月曜日
Feast of Trumpet was not in September 2018
Adonai taught me that "the date of the trumpet feast is not shown to the people whom you call as Jewish. Our appointment date is not in September this year. Check Our appointment, again and come out to meet me, my bride."
I checked the New Testament and found out.
The Feast of Trumpet that Adonai Elohim appointed is October 11th, 2018.
I praise our ADONAI ELOHIM!
He Is indeed in charge of His Nation even in its learning.
SHEMA ISRAEL! ADONAI ELOHEINU, ADONAI EKHAD!
#feastoftrumpet, #mana,
I checked the New Testament and found out.
The Feast of Trumpet that Adonai Elohim appointed is October 11th, 2018.
I praise our ADONAI ELOHIM!
He Is indeed in charge of His Nation even in its learning.
SHEMA ISRAEL! ADONAI ELOHEINU, ADONAI EKHAD!
#feastoftrumpet, #mana,
2018年9月14日金曜日
「666」の印が渦巻いている
教皇来年来日?
私とタンゴ踊りにくるのかな(笑)
さて、主は「ミトラの子」が
ペテロの権威を「偽証」しているのを
なんとお考えになる?
私とタンゴ踊りにくるのかな(笑)
さて、主は「ミトラの子」が
ペテロの権威を「偽証」しているのを
なんとお考えになる?
主が私にお示しくださった事を書こうと思う。
主は「ハッケヨーイ」!と大きな声で叫ばれた。
私の時が満ちたからだ。
これから話すのは、教皇の個人批判ではない。
現教皇は、実に魅力的な人物だ。
ただし、カトリック教会は嘘と偽善、そして作為をもって
「真理」への帰依たる「信仰」を
「宗教」にしてしまった責任を取らなくてはならない。
御名を汚し、呪い、聖書を書き換え
これから話すのは、教皇の個人批判ではない。
現教皇は、実に魅力的な人物だ。
ただし、カトリック教会は嘘と偽善、そして作為をもって
「真理」への帰依たる「信仰」を
「宗教」にしてしまった責任を取らなくてはならない。
御名を汚し、呪い、聖書を書き換え
例祭の預言をミトラの教義に書き換えたことは
あまりにも重い罪だ。
プロテスタントも、カトリック教会に反発はしたが
始まりたる「エロヒーム」に帰ることもなく、
ちょっと横道にそれたに過ぎない。
相変わらず、御名も、例祭も汚されたままであるし、
あまりにも重い罪だ。
プロテスタントも、カトリック教会に反発はしたが
始まりたる「エロヒーム」に帰ることもなく、
ちょっと横道にそれたに過ぎない。
相変わらず、御名も、例祭も汚されたままであるし、
創造主にまで異教の神の名前を着せたままだ
主はまさに、御自分の民の「牧会権」を
ペテロにお譲りになった
パオロにではない。
ペテロは、イスラエルの民を象徴し
パオロは、異邦人を象徴している
いわば、ペテロはその名の通り「岩」であり
パオロは岩の上を覆う、柔らかく扱いやすい「砂」である
主は明らかに「岩の上に家を建てなさい。」
砂を掘って、掘って、さらに掘って…
岩にぶち当たるまで、彫り続けろ…
そうおっしゃった。
ギリシャ語、ラテン語、そして英語
世界に広まるために砂はどんどん岩を覆ってきた
私達の手に聖書が届いた時には、掘るべき砂が山のようになっていた
主はまさに、御自分の民の「牧会権」を
ペテロにお譲りになった
パオロにではない。
ペテロは、イスラエルの民を象徴し
パオロは、異邦人を象徴している
いわば、ペテロはその名の通り「岩」であり
パオロは岩の上を覆う、柔らかく扱いやすい「砂」である
主は明らかに「岩の上に家を建てなさい。」
砂を掘って、掘って、さらに掘って…
岩にぶち当たるまで、彫り続けろ…
そうおっしゃった。
ギリシャ語、ラテン語、そして英語
世界に広まるために砂はどんどん岩を覆ってきた
私達の手に聖書が届いた時には、掘るべき砂が山のようになっていた
救い主の教えをヘブル的ルーツから断絶し
宗教というお砂遊びを「真理への帰依」とすり替えたのは
カトリック、プロテスタント、双方の「的外れ」である。
おかげで、羊たちは羊飼いもなく、野生化し
自力で神とつながらなくてはならなくなった。
※ヘブル語で「罪」は「的を外れること」である。
旧約聖書で「蛇」は
「魔術を行う者」「光り輝く者」とを合わせた言葉
「魔術を行う者」はヘブル的思考では
「実際とは違うものに見せかけること」
楽園での「蛇」の仕業を見ればはっきりわかる。
蛇の正体は、聖書にはっきり書かれている
彼は、かつてサムエルとも名付けられ
「美の極み」と称され「曙の王子」と呼ばれた
そして
ありとあらゆる宝石が彼を覆っていた…
私はカバラを研究するのに、まずタロットから研究した。
教皇を表す「Ⅴ」5のカードと、悪魔を表す「XV」15のカードは
旧約聖書で「蛇」は
「魔術を行う者」「光り輝く者」とを合わせた言葉
「魔術を行う者」はヘブル的思考では
「実際とは違うものに見せかけること」
楽園での「蛇」の仕業を見ればはっきりわかる。
蛇の正体は、聖書にはっきり書かれている
彼は、かつてサムエルとも名付けられ
「美の極み」と称され「曙の王子」と呼ばれた
そして
ありとあらゆる宝石が彼を覆っていた…
私はカバラを研究するのに、まずタロットから研究した。
教皇を表す「Ⅴ」5のカードと、悪魔を表す「XV」15のカードは
御覧の通り、まったく同じ構図をしている。
予め教皇のカードがなにを意味しているかを説明すると
「人の作った伝統や制度」を意味しているのだ。
教皇の「V」と悪魔の「XV」を並べると、
「VXV」になる。
「X」はローマ数字の「十」10にあたり、10はタロットの
「運命の輪」
運命の輪に描かれている、絵をよく見て欲しい
地球が十字の(しかも縦も横も同じ長さ)鍵で保管され
周りに運命の輪があるわけなのだが、
運命の輪には「TORA」と描かれている。
これは、モーゼを通して与えられた神の律法のことである。
「TORA」の文字と交互に描かれている文字は
ヘブル文字で
「イャッウェ」つまり、御父の聖名である。
(御名に栄光がありますように)
内側の輪に描かれている文字の説明と
周りに描かれている四元素の象意と
四大福音書に関する預言についてはまた、こんど
とにかく、運命の輪、とは「律法」のことを指している。
「X」律法をとってしまったら
悪魔と教皇(伝統)は、同じものになるのだ。
そしてXの歪みを正したら、十字架になる。
我々アジアの人間は知っている
…それでもやっぱり「十」は10(律法)なのだ
(聞く耳のある人は聞きなさい)
「X」を取り払い、「V」がいっしょになってしまったら、どうなるか
それは、「W」になるのだ。恐ろしいことだ
なぜ恐ろしいか?
「W」はヘブル文字の「ヴァヴ」「I」にあたる
ヘブル文字は、それぞれ数字を表す。
ヴァヴは「6」だ。
黙示録で、「666」は悪魔の印として書かれている。
「律法」が取り払われた世界(アンロックされた世界)は
この「666」のうちの1つの「6」があらわれる世界だということだ。
つまり、律法を軽視し、取り払ってしまった今の「キリスト教」の世界だ
そのようにカバラは示している。
二つの6が揃った
二つ?
もう一つの6は何かって?
タロットの6番は、創始の時からずっとある。
タロットの「VI」は「恋人」
図柄で明白。それは、アダムと、エヴァ。
つまり、人類そのものだ。
ヨハネによる福音書に描かれている、
「カナンの奇跡」…
メシアが最初になさった「しるし」である。
婚礼のぶどう酒が足りず、
メシアが水をぶどう酒に変えたという奇跡。
その家にはユダヤの伝統通り「きよめの瓶」が6つあったが
空だった。
メシアはこの瓶いっぱいに水を満たすようまずお命じになった。
6つの瓶は「人間」を表しているが、
この瓶はユダヤの習慣を果たすためにおいてあるものだった
ユダヤの習慣は、ならわしであり、
ユダヤのならわしは…神の法律に基づいている。
この6つの瓶は空だったのだ。
メシアは「瓶いっぱいに水で満たしなさい。」
とお命じになった。
私は、息子によってこの啓示をうけた。
八歳の息子はこう言った。
「救い主様は、空っぽの瓶から、ブクブクって
ワインを湧かせることも出来たのに、
まず、水でいっぱいにしなくてはならなかったんだね。
だって、救い主様は『お約束事(律法)を満たしに来た』って
おっしゃったもの。」
(幼子の口を通して讃美を歌わせる主を褒め称えます。)
そう
主は律法を満たしにいらしたのだ。
水は創始の時代から創造主がお与えくださった恵みの1つで
慈愛、感情、愛情、情感を象徴する。
人間の感情への反応として、「涙」が出る事で
その摂理は明らかである。
6は、人間の数字、律法を失った世界
あと1つは…なにか
それは、時間・時期の「6」かもしれない
ユダヤ暦第六の月であるエルルの月なのか
第六曜日の金曜日なのか…
(人間が勝手に不吉な日とした13日の金曜日とか?)
あるいは、これまでのパターンで考えて
カバラに全てしめされているとしたら
「7-1」なのか…
「VII」は「戦車」、文明の利器、そして、衝動
描かれている御者の胸当ては、実は…
この作家個人の意思で改竄されている。
本来、「戦車」のカードに描かれるべき胸当ては
天幕の時代、祭司が着けていたイスラエル十二氏族を表す胸当て。
天幕にいる若き王。御子。大祭司。
御子が御自分のルーツを身にまとっておられるのだ。
四大元素の全てを支配されているお方なのだから
そこから派生するあらゆるものは全て、
創造主の恩寵にすぎない。
「7-1」による「6」は、
創造主に至るルーツに立ち返ることなく
盲目に猛進している「システム」を表していると、
私は信じる。
今の世の中を見回すと、
御者のいない「戦車」が走り回っている。
つまり、これら3つ「6」がすでに、この世には揃っている。
万軍の主はシャロミットに臨んで言われる
ーーーー
額にこの3つの「6」が揃っている者達は、裁きを受ける。
聖書はそう語っている。
クリスチャンだから、大丈夫などと思うな
主は間違いなく「お前など知らない」と言うだろう。
主は一言も「クリスチャンを作りなさい。」とは言っていない。
クリスチャンなどという言葉(当たり前ではあるが)は、一度も
使っておられない。
「私の民よ。」と今も燃える思いで呼びかけておられる。
救い主を信じるというのは、「へぇ、そうなんだ」というのとはちがう
信じるとは、愛する事。従うこと。
くびきを負うこと…
毎週日曜日に律法を軽視し
勝手に取り払ったキリスト教会に行くことではない。
日曜日に会衆を集わせるあたり、
すでに律法を踏みにじっている。
結局、救い主の初臨時代のユダヤ人以上に
恐ろしい偽善をクリスチャンはおかしている。
主につながっていればなんでも許される?
おいおい、主に本当につながっている人間は
そのご命令に従わずにはいられないはずだ。
即座に12/25を祝うのを辞めるだろうし
ラッパの祭、仮庵の祭を無視するなど
絶対できないはずだ。
勝手に取り払ったキリスト教会に行くことではない。
日曜日に会衆を集わせるあたり、
すでに律法を踏みにじっている。
結局、救い主の初臨時代のユダヤ人以上に
恐ろしい偽善をクリスチャンはおかしている。
主につながっていればなんでも許される?
おいおい、主に本当につながっている人間は
そのご命令に従わずにはいられないはずだ。
即座に12/25を祝うのを辞めるだろうし
ラッパの祭、仮庵の祭を無視するなど
絶対できないはずだ。
万軍の主は、シャロミットに現れて
言われる
― 聞く耳を持つ人は聞きなさい
魂の顔を伏せても、その印は赤く光り、
裁きの日には、ラッパの音におののいて、
いやでも顔をあげることになるだろう。
アダムとイヴの子孫たちよ、
お前たちの額にある印を変えよ
我が声に顔をあげよ
策略にのってはいけない。
2018年9月9日日曜日
His Name is not Jesus.
His Birthday is never December 25th.
His Name is never Jesus.
Jesus, Yesous, are cursed name.
His Name is never Jesus.
Jesus, Yesous, are cursed name.
2018年7月6日金曜日
オウム 死す
[オウム真理教教祖、松本智津夫死刑囚の刑執行
https://www.sanspo.com/geino/news/20180706/tro18070609050002-n1.html]
死刑…
当然の報い。
私もそう思います。彼のした事は万死に値します。
でも、私たちは本当に、彼のこの蛮行と無関係なんでしょうか?
彼が「教祖になりたい」「人に命令する人間になりたい」と思うに至ったのには、
孤独で虐げられた少年時代があるのでしょう。
彼がこんな力を持つに至ったのは、彼を教祖と崇める人達がいたからです。
これほどまでこの人物を崇めるように、その人達を駆り立てたのは、誰でしょう?
私達です。
利己的な社会。折り合いの合わない人は切り捨てる。自分たちが、よければそれでいい。
冷たい、愛のない社会です。
自分の心地良さを、コミュニティの幸せより優先する社会を、
私達一人ひとりが望んだのではないでしょうか?
つまり、私達全員が、今回死刑になった人たちを死刑にしたんです。
ということは…
私達一人ひとりが、サリン事件を起こしたんです。
再発を防止するには、私達全員が傍観者ではなく、
自分たちのおかした罪見つめ、悔い改める以外ないんです。
追伸
オウムの残党達は、自分たちの名を「アレフ」と改めました。
私達聖書を信じる者にとって、これは聞き捨ててはならないことです。
目覚めなくてはいけません!
アバ
貴方が私達に辛抱強く、語りかけて下さる事に感謝します。
ルアッハ・カデーッシュ、
どうか罪人たちの病んだ魂にふれてください。
入り込んで、膨らみ、満たして下さい。
壁をすり抜け、平安の挨拶をして下さい。
傍観の罪をおかさせないよう。
高ぶる心を諌めてください。
真実の赦しを求めるよう、駆り立ててください。
贖い主、イホシュア様のお取りなしを期待して
私達の罪のすべてを、御前に掲げ
その真実の聖名において
お祈り致します。
https://www.sanspo.com/geino/news/20180706/tro18070609050002-n1.html]
死刑…
当然の報い。
私もそう思います。彼のした事は万死に値します。
でも、私たちは本当に、彼のこの蛮行と無関係なんでしょうか?
彼が「教祖になりたい」「人に命令する人間になりたい」と思うに至ったのには、
孤独で虐げられた少年時代があるのでしょう。
彼がこんな力を持つに至ったのは、彼を教祖と崇める人達がいたからです。
これほどまでこの人物を崇めるように、その人達を駆り立てたのは、誰でしょう?
私達です。
利己的な社会。折り合いの合わない人は切り捨てる。自分たちが、よければそれでいい。
冷たい、愛のない社会です。
自分の心地良さを、コミュニティの幸せより優先する社会を、
私達一人ひとりが望んだのではないでしょうか?
つまり、私達全員が、今回死刑になった人たちを死刑にしたんです。
ということは…
私達一人ひとりが、サリン事件を起こしたんです。
再発を防止するには、私達全員が傍観者ではなく、
自分たちのおかした罪見つめ、悔い改める以外ないんです。
追伸
オウムの残党達は、自分たちの名を「アレフ」と改めました。
私達聖書を信じる者にとって、これは聞き捨ててはならないことです。
目覚めなくてはいけません!
アバ
貴方が私達に辛抱強く、語りかけて下さる事に感謝します。
ルアッハ・カデーッシュ、
どうか罪人たちの病んだ魂にふれてください。
入り込んで、膨らみ、満たして下さい。
壁をすり抜け、平安の挨拶をして下さい。
傍観の罪をおかさせないよう。
高ぶる心を諌めてください。
真実の赦しを求めるよう、駆り立ててください。
贖い主、イホシュア様のお取りなしを期待して
私達の罪のすべてを、御前に掲げ
その真実の聖名において
お祈り致します。
2018年6月14日木曜日
2018年6月11日月曜日
Rei's LINE STAMP has been released!
The first Line stamp product has been released from Rei Munakata's Kids Book "Wings in the Sky and the White Bless"
「Pai the White Bird 1」
棟方玲宇のバイリンガル絵本(英語で漢字の哲学と論語を学ぶ絵本です)、「Wings and the White Breath」から、主人公Pai君のオリジナルLineスタンプ
発売されました!ぜひご利用下さい!
2018年5月27日日曜日
The miracle of Lazarus. ラザロの奇跡を生きる
ヨハネ11:17
John 11:17-27
一行がベタニヤに着いてみると、ラザロはすでに墓に葬られ、
四日もたっていました。
ベタニヤは、エルサレムからわずか三キロほどの所だったので、
エルサレムからも大ぜいのユダヤ人たちが弔問に詰めかけていました。
マルタとマリヤが慰めのことばを受けているところへ、
イエスの到着が知らされました。
マルタはそれを聞くと、取る物も取りあえず、迎えに行きました。
ところが、マリヤは家の中にじっと座ったままでした。
マルタはイエスに向かって訴えました。
「先生。あなたがいてくださったら、ラザロは死なずにすんだでしょうに。
今でも、あなたが神様にお求めになるなら、
神様はそのとおりにしてくださるでしょう。」
イエスは言われました。「そのとおりです。ラザロは生き返るのです。」
マルタは言いました。
「はい。いつかすべての人が復活する日には、もちろん……。」
しかし、イエスは言われました。
「このわたしが、死人を生き返らせ、もう一度いのちを与えるのです。
わたしを信じる者は、たとえほかの人と同じように死んでも、
また生きるのです。
わたしを信じて永遠のいのちを持っている者は、
決して滅びることがありません。このことを信じますか、マルタ。」
「はい、先生。あなたこそ、
長いあいだ待ち続けてきた神の子キリストだと信じております。」
On his arrival,
Jesus found that Lazarus had already been in the tomb for four days.
Now Bethany was less than two miles from Jerusalem,
and many Jews had come to Martha and Mary
to comfort them in the loss of their brother.
When Martha heard that Jesus was coming,
she went out to meet him, but Mary stayed at home.
‘Lord,’ Martha said to Jesus, ‘if you had been here,
my brother would not have died.
But I know that even now God will give you whatever you ask.’
Jesus said to her, ‘Your brother will rise again.’
Martha answered,
‘I know he will rise again in the resurrection at the last day.’
Jesus said to her, ‘I am the resurrection and the life.
The one who believes in me will live,
even though they die;and whoever lives by believing in me will never die.
Do you believe this?’
‘Yes, Lord,’ she replied, ‘I believe that you are the Messiah,
the Son of God, who is to come into the world.’ -
これは世に名高い「ラザロの奇跡」です。
この物語のシーンの中に、皆さんと飛び込んでみたいと思います。
This is a miracle episode well-known as “the ressurection of Lazarus.”
Let us jump into this scenery.
ラザロの奇跡を生きる
The miracle of
LAZARUS
物語の舞台はベタニア。エルサレムから3kmほどの距離にある街です。
まず登場するのは、イェシュア。
The story takes place in a small village called Bethany, 3km away from Jerusalem.
Our first star of the scene is our Yeshua.
イェシュアは今、親しくしていた友、ラザロのお墓の前におられます。
愛する友人の死を聞いて、馳せ参じて来られたのか?
いいえ、違います。
Yeshua Is now Standing in front of a tomb that is of His dear friend Lazarus.
Did He just rush to moan His friends death?
No He Didn't.
ヨハネの福音書、11章1節を見ると、
ヨルダン川の東側に滞在しておられたイェシュアのもとに
「ラザロが病に倒れた。」と知らせが来たのです。
すぐに発ってお癒やしになるかと思いきや、そうはなさらず、
主はこのようにおっしゃいました。
As we see John 11:1, Yeshua had been in the East bank of the Jordan River
and there He received a notice of Lazarus being sick.
Instead of hasting hurry to “Heal” Lazarus,
Yeshua Dared to stay two more extra days there after Receiving the notice.
この知らせを聞いたイエスは言われました。
「この病気は、ラザロの死で終わるものではありません。
神の栄光が現されるためです。それによって神の子が、
栄光を受けるのです。」
When he heard this, Jesus said,
‘This illness will not end in death.
No, it is for God’s glory so that God’s Son may be glorified through it.’
-ヨハネ11:4 John 11:4
そうして、それからなお二日間、その地に留まられたのです。
主は、ラザロの危篤を知りながら急いで出立することなく。
知らせから二日してようやく、ベタニアにむかったのです。
当時すでに
「イェシュア…預言者か、メシアか、はたまた冒涜者か?!」
という噂はユダヤじゅうに広まっていました。
イェシュアに嫉妬していたユダヤのパリサイ人たちの間には、
すでに不穏な空気が立ちこめていたのです。
At that time, there already had been a scandalistic rumours among the Jews
who were jealous of Yeshua wondering
“Yeshua, the Messiah or a Violator?"
Pharisees were trying to scheme somehow to make Yeshua fall.
さてベタニアについたイェシュアを出迎えたのは、
ラザロの一番上のお姉さん、マルタです。
その時のマルタの言葉をご覧下さい。
The first person that welcomed Yeshua is Martha,
one of Lazarus sisters. See how Martha addressed to Yeshua.
ヨハネ11:21ー22
John11:21−22
「先生。あなたがいてくださったら、
ラザロは死なずにすんだでしょうに。
今でも、あなたが神様にお求めになるなら、
神様はそのとおりにしてくださるでしょう。」
‘Lord,’ Martha said to Jesus,
‘if you had been here, my brother would not have died.
But I know that even now God will give you whatever you ask.’
そして、ヤフシュアはマルタの妹のマリアを呼びにやらせ、家の中で座っていたマリアもヤフシュアを出迎えに来ます。
Then Yeshua told Martha to get another sister Mary that was sitting in the house.
ヨハネ11:32
John11:32
マリヤはイエスのところまで来ると、くずおれるように足もとにひれ伏し、涙ながらに言いました。「ああ、先生。あなたさえいてくださったら、ラザロは、ラザロはまだ生きていたでしょうに。」
When Mary reached the place where Jesus was and saw him, she fell at his feet and said, ‘Lord, if you had been here, my brother would not have died.’
この二人の姉妹の言動をよくご覧ください。
とても重要な鍵になります。
Please pay a good attention to the actions of those sisters.
They will be very important keys later.
この後、イェシュアは、墓石をどけよとお命じになります。
マルタは、「もう四日も経っているから、臭くなっていますよ」と言います。
まだ、イェシュアがなさろうとしている事を理解していない様子がわかります。
After this Yeshua ordered to remove the tombstone,
but Martha claims "It has been more than four days since we placed his corp in there.
It must smell already."
She obviously didn't have any idea what Yeshua was trying to do.
イェシュアがなさろうとしていることは、マルタが出迎えに出てきた時に、
明確に宣言されています。
What Yeshua was about to do had been proclaimed to Martha previously
as he had arrived.
「このわたしが、死人を生き返らせ、もう一度いのちを与えるのです。わたしを信じる者は、たとえほかの人と同じように死んでも、また生きるのです。わたしを信じて永遠のいのちを持っている者は、決して滅びることがありません。このことを信じますか、マルタ。」
Jesus said to her, ‘I am the resurrection and the life. The one who believes in me will live, even though they die;and whoever lives by believing in me will never die. Do you believe this?’
(ヨハネ/John 11:25,26)
なのに、まだマルタは、死んだ弟、ラザロの肉体が、
今ここで蘇るということを信じられないでいます。
Yet Martha seems not understanding that her dead brother
will rise from the death here at that very moment.
私は群衆を描くのがあまり得意ではないので、
ここには描いていないのですが、もう一つ、
ここに在ってこの物語の重要な要素となっている登場人物がいます。
ユダヤ人です。
I am not really good at drawing the clouds,
therefore you do not see them in my illustration.
But the Jewish people that were gathered here
played extremely important role in this episode.
エルサレムから3キロしか離れていないベタニアでしたので、
エルサレムからもたくさんのユダヤ人が、遺された姉妹を慰めに来ていました。
実は、このユダヤ人こそが、
この奇跡の「理由」だったと言っても過言ではないのです。
そのことは、後程触れましょう。
Since Bethany was only 3 km away from Jerusalem,
there were many people there to extend their condolences toward the sisters.
These Jews were the very "reason"
why Yeshua made that miracle happened here and for Lazarus.
イェシュアはラザロの二人の姉、そしてユダヤ人の群衆が固唾を呑んで見守るなか、
こう祈られ、その後お命じになります。
Yeshua Prays and Commands as follows.
「父よ。願いを聞いてくださってありがとうございます。
あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることはわかっています。
ただ、あなたがわたしをお遣わしになったことを、
ここに立っているみんなが信じるように、こう申し上げたのです」
と祈られました。
それから、大声で、「ラザロよ。出て来なさい!」とお命じになりました。
- ヨハネ11:41-43
So they took away the stone.
Then Jesus looked up and said,
‘Father, I thank you that you have heard me.
I knew that you always hear me,
but I said this for the benefit of the people standing here,
that they may believe that you sent me.
’When he had said this, Jesus called in a loud voice,
‘Lazarus, come out!’
- John 11:41-43
すると、死人は顔も顔おおいで包まれたまま、出てきました…(ヨハネ11:44)
The dead man came out,
his hands and feet wrapped with strips of linen, and a cloth round his face.
Jesus said to them, ‘Take off the grave clothes and let him go.’
- John 11:44
わたしを信じる者は、たとえほかの人と同じように死んでも、
また生きるのです。わたしを信じて永遠のいのちを持っている者は、
決して滅びることがありません。
‘I am the resurrection and the life.
The one who believes in me will live, even though they die;
- John 11:25
さて、この御言は「聖霊によって祈れば、誰でも生き返る」と言う意味でしょうか?
主は、私達クリスチャンが肉体の死を克服し、
この地上で永遠に生きることをお望みなのでしょうか?
Does this Holy Word mean " we all resurrect always if we pray for Holy Spirits."?
マタイの福音書10:8( Matthew 10:8)の御言に、
病人を治し、死人を生き返らせ、ツァラアトの人を治し、
悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
Heal those who are ill, raise the dead, cleanse those who have leprosy,
drive out demons. Freely you have received; freely give.
このようにありますから、
クリスチャンは今も死人を蘇らせるべきなのでしょうか?
それが出来ないということは、御心に背いていることになるのでしょうか?
そもそも、「肉体の死」を回避し、この世に肉体をもって生き続ける事が、
神の御心なんでしょうか?
聖霊を持っていたら、私達は神の御心をすべて知り得るのでしょうか?
Does this Commandment in the Gospel of Matthew refers all Christians
to make all dead resurrect and live again?
If we do not succeed, are we going against His Will?
Is avoiding the "death of fresh"
and living with our body forever ought to be His Will, anyway?
If Holy Spirit Live in side of us, do we all "know" His Will automatically?
まず、私の考えを述べますが、
エデンの園を追われこの世に生きる私達には、必ず死が訪れます。
しかし、イェシュアと共に生きた人間にとって、「死」は「滅び」ではなくなります。
別の名前を持つのです。私達クリスチャンにとって「死」は「栄化」です。
そして、「死」は創造主が、
失楽園後人間に与えた最初の「慈悲」の一つなのだと私は確信しています。
In my opinion, to us all that were cast out of Eden, death must come.
But to those who lived with Yeshua, death is not perish.
Death will have a new name to Yeshua’s people.
It’s glorification.
And “death" is nothing but a "grace" and "mercy" from our Creator
for His creatures that had lost paradise.
さぁ、皆さんと共にイェシュアが愛されたこの三兄弟の奇跡を
「生きて」みたいと思います。
Let us "live" this scenery of miracle that Yeshua gave to His loving friends.
二人の姉妹の態度を見てください。
二人が願っていたことはなんですか?
Look at the two sisters. How is their attitude?
What are they wishing for?
二人は、ラザロの病床にイェシュアが駆けつけ、
彼が、まだ生きているうちに病を癒やして下さる事を願いましたが、
明らかにそれは叶えられませんでした。
ラザロの死に目にも来てくれなかったイェシュア…
それでもマルタは従順な信仰を示し、
イェシュアの権威に信頼していると告白しています。
マリアは、イェシュアの足下に跪いています。
What they were hoping is that Yeshua would rush to cure their brother’s illness,
but it obviously didn't happen.
Yeshua didn't even rush…
Martha, nevertheless, showed her obedience and love toward Yeshua
and she even confess her trust to Yeshua’s Authority.
願いを聞き入れてくれなかった主に対して、
不平不満を言うことなくそれでも、主への愛を告白しているではありませんか。
素晴らしい信仰だと思います。
Instead of complaining against Yeshua,
the two sisters confessed her love for Adonai Yeshua.
What a faith!
二人は、主のなさる事が、
自分達の望んだことではないけれど、主の善性を信じて受け入れているのです。
These sisters embraced what happened to them
trusting Adonai’s Righteousness although it was not what they wished for.
駆けつけたイェシュアに
「主よ!弟を生き返らせて下さい!」と訴え出ているでしょうか?
いいえ、そんな事は一言も願っていません。
つまり、蘇りなどを願って祈ってなどいないのです。
それどころか、はっきりヤフシュアが「今から蘇るんだよ」と言っているのに
「もう四日もたっているから(無理です)」などと言っています。
Did they just ran and cried "Oh Adonai! Please make my brother resurrect!"?
Never!
They never prayed for resurrection.
They didn't have any idea even when Yeshua clearly pronounced it.
They rather replied as funny as " it has been four days from his death”.
つまり、マルタの中で
『ラザロが生き返る』 というオプションは一切存在していなかったのです。
This means the option of "Lazarus lives again" never existed in those sisters.
They could never hope for it.
この様な奇跡が起こる対象としてどのような人が選ばれるのか、
その人選基準は人間にははかり知れませんが、
少なくとも強く願い祈る者に与えられているわけではないことがわかります。
We never know who would be chosen as objects of this kind of miracle.
At least we clearly know that it wouldn't be "those who wish strongly".
また、全ての人間に死を回避させ、
蘇らせることが、御心であるというのも、主の御言から察するに違います。
4節です。
And we can see that it is wrong to think all human being spared from death
is His Will.
「この病気は、ラザロの死で終わるものではありません。
神の栄光が現されるためです。
それによって神の子が、栄光を受けるのです。」
When he heard this, Jesus said,
‘This illness will not end in death.
No, it is for God’s glory so that God’s Son may be glorified through it.’
- John 11:4
もし、万人の死を指して言うならば、
「ラザロの死」と限定しておっしゃるでしょうか?
この奇跡はラザロだから起きたのではないでしょうか?
If He Meant that all death or illness should be avoided,
He wouldn’t specify as "this".
Didn’t this happen because it was Lazarus?
主のなさる事には必ず理由があり、全ての事に預言的な意味があるのです。
この奇跡の預言的な意味を考える前に、もう一つ検証するべきことがあります。
Everything that Adonai Does has reasons and it is always a message.
But before we think of the message, we need to think of the reasons first.
それは、私が描かなかったユダヤ人群衆の存在です。
The reason is the Jews that were placed by the Creator there
to witness this miracle.
実は、このラザロ復活の奇跡を目撃したユダヤ人たちが、エルサレムにもどり、
神殿の司祭たちに報告したので、
司祭たちは恐れを抱きイェシュアを殺す決定を下したのです。
つまり、このラザロ復活の事件が、イェシュア処刑の引き金となったわけです。
The fact is that it is these Jews that pulled the trigger of the crucifixion.
They returned to Jerusalem and
this miracle came to the knowledge of the high priests, and then,
they decided to kill Yeshua.
ユダ・イスカリオテと同じく、
旧約聖書の救世主預言の成就を促すために重要な役割を果たすのが、
この群衆の中のユダヤ人です。つまり、「イスラエルの家の失われた子羊」です。
でも全ては、イェシュアに促されて、
いわばイェシュアのリードに従って起こっているのです。
Like Judas Iscariot, these people were placed on purpose there,
to complete the prophecies of Messiah in the Old Testament.
These people are the "lost lambs of Israel"
But we should note that every single things happened on Yeshua’s initiation.
He Leads everything.
さきほどのマタイ10:8の御言の前、6節にもありますが、
イェシュアははっきりと、異邦人やサマリア人の道を通らず、
「イスラエルの家の失われた子羊」のところだけにいけと命じています。
「病人を癒せ」「福音を宣べ伝えよ」とは他でも命令なさっていますが、
「死人を蘇らせよ」という指示はここでしか出ていません。
つまり、死を回避する奇跡というのは、
普遍的に必要な奇跡ではなく、
イスラエルの民に向けてなされるべきご命令だったということではないでしょうか。
Matthew 10:8 that was previously mentioned, comes after this varse,
Go rather to the lost sheep of Israel. - Matthew 10:6
He clearly Instructed,
These twelve Jesus sent out with the following instructions:
‘Do not go among the Gentiles or enter any town of the Samaritans.
- Matthew 10:5
He Commanded to share the Gospels or heal the sick in other places in the Bible
but the Commandment to “rise the dead” appears only here.
And He says to perform that miracle only for “the lost lamb of Israel”.
We should understand that the miracle of rising dead
is not something needs to be done universally
but it is Commanded especially for Iraelies.
イェシュアの目的は、明らかに旧約の預言の実現です。
The reason why He performed this miracle for Lazarus of Bethany
is clearly the realization of the prophecy of Izayah (especially).
やはり、この奇跡は、エルサレムから3キロしか離れていないベタニアに住む、
ラザロだったから起きた奇跡なのです。
After all, this miracle happened because it was for Lazarus that lived in Bethany
that is only 3 km away from Jerusalem and
because Lazarus was caught in sick in this specific timing,
a little bit before Passover.
さて、次に、この奇跡の預言的な意味を考えてみましょう。
So what is the message that this miracle carries for us?
改めて皆さんにご紹介いたします。
ラザロさんです。しかし、彼の本当の名前は、エリエゼル。
ラザロは、エリエゼルのギリシャ語版です。
Let me introduce you properly, a man called Lazarus.
His real name is Eliezel. Lazasus is Greek version of Eliezel.
エリエゼルとは、「神(エリ)の助け手(エゼル)」という意味です。
創世記2:8で「女」を創造されますが、
その時にも「助け手」エゼルという言葉が使われています。
Eliezel means " Eli (YHWH) + Ezel (helps)".
The word of Ezel appears in the Bible for first time in Genesis 2:8,
when the Creator created "woman" as an "Ezel" for the man.
私達の救い主、イェシュアの御名は「神の救い」という意味です。
まるで、小文字と大文字の様なこの二つの名前…
エリエゼルの奇跡は、この約数日後に起こる、
イェシュアの十字架の死と三日目の復活の予表である、
と多くの神学者が考えていますが、私もその考えに賛成です。
Our Saviour, Yeshua’s Name means " YHWH Saves".
"Saves" and "helps"....
they are like big word and small word, or capital letter and small letter.
Many theologians say that the miracle of Lazarus happened
as a prediction or rehearsal of Yeshua’s crucifixion
that would happen few days after this.
I agree with that.
そして、私は、こうも思うのです。
私達はあまりにも容易く忘れてしまうのですが、
私達人間は創造主たる唯一絶対のヤッウェを裏切り、
背を向け続けた罪深い被造物です。
今すぐ滅ぼされても、仕方の無い生き物なんです。
And I think further as follows.
So easily we tend to forget that we are such sinful creature
that the Creator Could destroy us even this very moment.
We turned back on Him, we denied Him, and we betrayed Him.
そんな絶望的な滅びの運命から「助ける手」が、
イェシュアによって蘇った。
その事を示していると思います。
What we see in this episode is that
"the helping hand" was saved by Yeshua
from the desperate perishing destiny.
これはあくまでも私の私感ですが、
この4日という日数は、「4つの解放」を示しています。「4つの出エジプト」です。
図をご覧下さい。
私には「4日」という日数が
この「4つの解放」を意味していると思えてならないのです!
Then why four days, instead of three?
Unfortunately the chart above is written only in Japanese?
Four days stand for four liberations.
- Exodos. Free from Egypt.
- Free from Babylonian captivity.
- Liberation of the Yeshua’s Cross. (free from the original sin)
- Liberation of the Yeshua’s returning. (free from antiMessiah)
聖書の奇跡は一つ一つが預言。
聖書に書かれていることには、何一つ無駄がないんです。
小さな点、棒(一点一画)に至るまで無駄なく、
変更も追加も一切無用であるばかりか、
文字の中の一点一画すべてが重要な意味を発信しています。
(マタイ5:18)
部分的に捉えて、自分の主張やオリジナルの神学を正当化するならば、
荒野のサタンの誘惑に屈しているに過ぎません。
Everything written in the Bible is prophecy.
There is nothing that we can ignore.
Even a dot, or a line in a letter tells important messages
that we should never change a thing. (Matthew 5:18)
If one comprehend the Bible only by English
or any other languages that is not Hebrew
(or unfortunately Greek for New Testament),
and make his/her original doctrine and justifies him/herself by it,
that is nothing but being yielded by the Saturn's Temptation in the wild.
It is of course, easier for us as Asians because we have same kind of letter culture.
最近流行りの「奇跡派」のクリスチャンは
このラザロの奇跡で発せられた御言を取り出して
「死は悪魔から来るもの。」
「死から甦ることが神の御心だ」
「俺たちは聖霊を受けとっているから、神の御心を完全に理解している。」
マタイ10:8を持ち出しては、
「ほら!主はこのように命じておられる!」
と言います。
メシアの民は、この悪魔の罠から守られなくてはいけません。
Now a days we see many Christians that perform miracles.
They heal and baptise people in Holy Spirit and water.
They bring up this Lazarus episode and claim
"Death comes from Saturn."
"God’s Will is that we live forever"
"As we received the Holy Spirit, we perfectly know what God’s Will Is".
They bring up Matthew 10:8 and say,
"See? He Commanded us to raise dead!"
The Lambs of Messiah must be protected from this.
Even more because they really heal.
聖書に記述される「癒す」という言葉ですが、
ヘブル人にとって「癒す」という言葉には単なる「病気の治癒」だけでなく、
「祭壇を立て直す」、「水を浄める」という意味があります。
The word of "healing" for Hebrews, does not simply mean "cure"
but also means "fixing the altar" or "cleansing the water"
どの奇跡エピソードについてもそうですが、
ヨハネの福音書に「七つの奇跡」としてまとめられているエピソードを、
すべて時系列に並べて全体のメッセージを考える事はとても大切なことです。
イェシュアの最初の「しるし」として行われた
カナンの結婚式で水をぶどう酒(祝福の象徴)に変えた、という奇跡と、
この七つ目、最後の「しるし」として行われた
ラザロの復活との関連については、また別の機会に瞑想し書きたいと思います。
しかし、この最初の「しるし」において、
私達は「へぇ、水をぶどう酒に変えるんだぁ」で終わるのではなく、
ここにイェシュアの「癒し」の本質が予め示されているを
学び取らなくてはいけないと思います。
It is very important to meditate the seven miracle episodes
that are shown in the Gospel of John,
by putting them in timeline.
I shall write about the relationship between
the first miracle of Yeshua known as the miracle of wedding in Canaan,
in which Yeshua Changed plain water into wine,
and this miracle of Eliezel.
But we shouldn't just comprehend these episodes
like "Wow! great! He turned water to be wine?!"
when we read the first miracle in Canaan.
We ought to learn the true nature of Yeshua’s healing.
Yeshua performed so many other miracles.
Apostle John dare to list up these seven particularly.
Naturally there is a reason behind it.
聖書は
旧約・新約の互換性(関連性)、
歴史的文化背景、
預言的背景、
文学的表現の波及、
そして、もう一つ大切なのは
言語的背景をしっかりと踏まえて解釈し、
その上で一人ひとりに照らし合わせて
主が発しておられる個人的なメッセージとして受け取らなければいけないと、
私は、信じます。
Comprehending the Bible takes deep study of
relevance between Old and New Testament,
historical background, prophetic background,
letteretual expansion
and above all,
the linguistic backgrounds,
then think about the personal message behind it.
今この時代に在る私達が、
尚も「死の回避」の一点のみ願い求める事は、
キリストの十字架の犠牲が不充分だったと言っているようなものです。
If we, that live in the modern time, ask only for being spared from the death,
we are as bad as saying that Yeshua’s sacrifice on the cross was not enough.
わたしを信じる者は、たとえほかの人と同じように死んでも、また生きるのです。わたしを信じて永遠のいのちを持っている者は、決して滅びることがありません。
I am the resurrection and the life. The one who believes in me will live, even though they die
ヨハネ John 11:26の御言にある「また生きる」と言う言葉は、
その次に続く「永遠の生命」と同義の言葉です。
つまり、天の御国に入って得る永遠の生命を生きるのです。
この世の話ではありません。
イェシュアを信じる者の死はもはや「滅び」ではない。
イェシュアは、御自分だけが御国への「門」であることを、
死を克服する奇跡を通して証明なさったのです。
"live again" and "life in eternity",
these two Words we read in John 11:26 written in parallelism.
As always it is harder to see that in English translation.
This means those who believe in Yeshua will live the eternal life
because we enter in the Kingdom.
Yeshua through this miracle of defeating death,
Proved the fact that He Is the only one "gate" to the Kingdom.
死そのものが御心に適わないならば、
主の御心はこの二千年の間ずっと、一度も果たされていない事になります。
If the death itself did not meet His Will,
that means for all these two thousand years,
His Will had been failed.
Not even once His Will concluded? Nonsense!
エリエゼルは今どこにいますか? 使徒ヨハネは?
Where is Eliezel now? Where is Apostle John?
おかしな質問かと思われるでしょうが、
全員、すでに肉体の死を迎えて、この世にはいませんよね。
万軍の主、完全なる勝利者たる創造主の御心は、必ず果たされます。
イェシュアの再臨の時まで、死は100%万人に訪れます。
問題は、その死を「愛すべき友」として招き入れることが出来る程に
イェシュアへの愛に生きる事が出来るかどうかなのでは、ないでしょうか。
You might think it is a silly question.
But they all died in fresh, they are not in this world anymore, are they?
The Great Will of El Shadai, Comes true for sure.
Death comes to us all 100%.
The problem is if we can live on this earth in love for Yeshua
so we can embrace the death as our loving friend.
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