「りんじゅのさと」は絵本作家 棟方玲宇(むなかたれい)のオフィシャル・ウェブサイトです。 「玲樹(りんじゅ)」とは歌人でもある棟方のペンネームです。 Welcome to the official website of Rei Munakata, a children's book creator.
2017年4月29日土曜日
2017年4月28日金曜日
【マイクラ】ファンタジーテクチュアDay2 マグマの近くは宝がいっぱい!
教育って、すべて親子のコミュニケーション(礼)にかかってるんですよね
学校にたよっちゃだめ!
ヴァーチャルな空間でのコミュニケーションを通して
リョリョがリーダーシップ、計画性、協力を学んでいるところを実況しています。
2017年4月27日木曜日
2017年4月19日水曜日
板垣退助の逆手ツッコミ
「田」という文字があります。
これは、もちろん田んぼの姿から来た漢字ですが、
田んぼとは、なんでしょう。
領地です。
自分の勝手が及ぶ範囲です。
そして、自分が責任をとることができる範囲です。
この田んぼを区切ることから、人間社会には法律を成文する必要が出てきたり
社会秩序に、共通認識が存在することの重要性を発生させるのです。
さて、先日、ある中学生が、地下鉄を降りて、
自分がさっきまで乗っていた地下鉄の車両本体をドンドン!と叩いて
電車の発車を遅らせました。
これは、一昔前ではありえないことだったではないでしょうか?
公共の乗り物を叩いて、挙句の果て、その発車時間を遅らせる・・・。
彼らは、公共における自分(自らが負う分:責任)をわきまえてないのです。
我が家では、車に乗りません。
車に乗ることに慣れた子供というものの、成れの果てが、こういう事象です。
「車」という文字は田んぼの両側に車輪がついている姿です。
家という「勝手の及ぶ範囲」から
さらに「移動式」「勝手の及ぶ範囲」にのって、
自分の目的地へ行きます。
責任能力がない子供の目的地とは、たいてい「自分がサービスを受ける場所です」
あるいは、別の「勝手の及ぶ範囲」に行くのです。
このように、最近の子供は、乳幼児期に「公」に触れずに、6,7歳を迎え
一年生になっていきなり!
公道を子供だけで、大人の監視なく歩くのです。
こんな恐ろしいこと、私には到底できません。
息子には「分をわきまえる」
コミュニティに自らが負っている責任を理解することを
なによりも大切に教えていきたいです。
それではじめて「自分」を得るわけですから・・・。
これがなければただの「我」(エゴ)です。
「わがまま」はよくない、と教えない親は、その時点で親じゃないんです。
さて、「自由」という言葉があります。
これは、実はある人物が、人工的に作った言葉です。
その人物とは、あの福沢諭吉です。
ある時、福沢は英語の「Freedom」という言葉に出会います。
しかし、彼は、当時存在していた日本語の言葉の中に、
このFreedomに相当する言葉がないので「自らを由」とするを意味する
「自由」と言う言葉を作るのです。
さて、ここで注目しなくてはいけないのですが「勝手」という言葉は
当時も存在していたということです。
でも、彼はこの「勝手」という言葉と、「Freedom」をイコール=で結ばなかった。
なぜでしょう。
答えは簡単です。
違うからです。
根本的に違うのです。
勝手というのは、手が理性に対して勝利し、意志に関係なく動く様子です。
そこに、人間的な考えや、制御は介在しません。
では・・・「自由」とは・・・
「自らを由とする」と、私はあえて「を」をきちんと間に入れて訳しました。
しかし「みずからよしとする」と読む人もいて、これをとても多くの現代人が
「みずからOKとする」と解釈しています。
全然誤解です。
答えは「由」という言葉に在ります。
「由」とは 理由の「由」です。
先ほどの「田」からチョロっと、線がはみ出ています。
勝手の及ぶ範囲から、その影響力を延長させている様子です。
その影響力の結果から逆さにたどれば、どこの田んぼから出た事柄なのかが明らかにわかる様子なのです。
自分を、ある事柄の、「出発点」にするということです。
当然、「自分が責任を取る範囲」という要素は消えずに残ります。
むしろ、誰が責任を取るのか、はっきりしている状態なのです。
福沢諭吉が生きた明治時代というのは、大政奉還が成就し激動の日本ではありましたが。
身分制度というのは、江戸時代だろうが、明治時代だろうが色濃く存在していたのです。
身分の低い人間は武士も農民も「自分で考えて行動する」などということはありませんでした。
自らの意志で、自らの運命を切り開き、自らの分を得て、それによって起きたことの一切の責任を負う。
これこそが「自由に生きる」です。
意志や意気が介在しまくっています。
先日、PTAの会長なにがし、と話をしましたが、
登下校のルールをしっかり成文させ、各家庭に配って徹底させてほしい。
と、申し立てる私に対して「子供たちが二十歳になって自分で判断したり、考える子供になってほしいので、子供たちの自由を尊重したいのです。」と、成文の必要はまったくないとのこと・・・
子供たちは、というと・・・
登下校の通学路で、幼児をこけさせ、下級生を取り囲み因縁をつけ、お金を要求し、車道にものを投げたり、横断歩道の途中で円陣組んでジャンプ遊び、途中の花壇に落書き・・・
「地域の人に怒られながら大きくなってほしい」というのです。
「先生たちが朝会で言ってくれていると思うので。」
まったく、馬鹿馬鹿しい・・・また、学校に丸投げです。
「自由」という言葉は「勝手」の丁寧語だと思っているのです。
福沢諭吉は今頃、草葉の陰で「ちゃうっちゅーねん!」と逆手ツッコミを入れているはずです。
「自由」というのは、自らの「意志」や「意気」が「生」じゃなく
ちゃんと「考える」ことで「調理」することができる生命体にだけ許された特権なのです。「自らを由」とするには、まず「自」が成立していないといけない、つまり、「自分」を得ていないといけないということです。もっと言えば、コミュニティに自らが負っている責任を受け入れている人間にだけ、許されていることなのです。
あのような状態で、どこが「自分を得ている」と言うのでしょうか?いつ責任をとったのでしょうか?
勝手を放置することが、自由を尊重することになるなら、民主主義なんてクソ喰らえ!
愚民の国で多数決なんて、恐ろしいわい。
「自由」という尊い特権は「生意気」な「我鬼」(がき)には、与えられていないのです。
早い話、(いまさらですが)今の子供は、生意気な餓鬼ばかり。「我鬼」であり「餓鬼」です。「意気」を「調理」されるというのは、心と魂の栄養です。生のまんま放置されるから餓えているのです。育てることは、養うこととは違います。教育とは、どんな形でもいいから「考」というフライパンを持つことを教えることです。
時には、可愛い子供のドス黒い悪意とも向き合うことも大切なんです。
福沢はん、わたくしが代わりに、とっておきの逆手ツッコミ入れときますわ。
「自由と勝手、いっしょにせんとって!」
これは、もちろん田んぼの姿から来た漢字ですが、
田んぼとは、なんでしょう。
領地です。
自分の勝手が及ぶ範囲です。
そして、自分が責任をとることができる範囲です。
この田んぼを区切ることから、人間社会には法律を成文する必要が出てきたり
社会秩序に、共通認識が存在することの重要性を発生させるのです。
さて、先日、ある中学生が、地下鉄を降りて、
自分がさっきまで乗っていた地下鉄の車両本体をドンドン!と叩いて
電車の発車を遅らせました。
これは、一昔前ではありえないことだったではないでしょうか?
公共の乗り物を叩いて、挙句の果て、その発車時間を遅らせる・・・。
彼らは、公共における自分(自らが負う分:責任)をわきまえてないのです。
我が家では、車に乗りません。
車に乗ることに慣れた子供というものの、成れの果てが、こういう事象です。
「車」という文字は田んぼの両側に車輪がついている姿です。
家という「勝手の及ぶ範囲」から
さらに「移動式」「勝手の及ぶ範囲」にのって、
自分の目的地へ行きます。
責任能力がない子供の目的地とは、たいてい「自分がサービスを受ける場所です」
あるいは、別の「勝手の及ぶ範囲」に行くのです。
このように、最近の子供は、乳幼児期に「公」に触れずに、6,7歳を迎え
一年生になっていきなり!
公道を子供だけで、大人の監視なく歩くのです。
こんな恐ろしいこと、私には到底できません。
息子には「分をわきまえる」
コミュニティに自らが負っている責任を理解することを
なによりも大切に教えていきたいです。
それではじめて「自分」を得るわけですから・・・。
これがなければただの「我」(エゴ)です。
「わがまま」はよくない、と教えない親は、その時点で親じゃないんです。
さて、「自由」という言葉があります。
これは、実はある人物が、人工的に作った言葉です。
その人物とは、あの福沢諭吉です。
ある時、福沢は英語の「Freedom」という言葉に出会います。
しかし、彼は、当時存在していた日本語の言葉の中に、
このFreedomに相当する言葉がないので「自らを由」とするを意味する
「自由」と言う言葉を作るのです。
さて、ここで注目しなくてはいけないのですが「勝手」という言葉は
当時も存在していたということです。
でも、彼はこの「勝手」という言葉と、「Freedom」をイコール=で結ばなかった。
なぜでしょう。
答えは簡単です。
違うからです。
根本的に違うのです。
勝手というのは、手が理性に対して勝利し、意志に関係なく動く様子です。
そこに、人間的な考えや、制御は介在しません。
では・・・「自由」とは・・・
「自らを由とする」と、私はあえて「を」をきちんと間に入れて訳しました。
しかし「みずからよしとする」と読む人もいて、これをとても多くの現代人が
「みずからOKとする」と解釈しています。
全然誤解です。
答えは「由」という言葉に在ります。
「由」とは 理由の「由」です。
先ほどの「田」からチョロっと、線がはみ出ています。
勝手の及ぶ範囲から、その影響力を延長させている様子です。
その影響力の結果から逆さにたどれば、どこの田んぼから出た事柄なのかが明らかにわかる様子なのです。
自分を、ある事柄の、「出発点」にするということです。
当然、「自分が責任を取る範囲」という要素は消えずに残ります。
むしろ、誰が責任を取るのか、はっきりしている状態なのです。
福沢諭吉が生きた明治時代というのは、大政奉還が成就し激動の日本ではありましたが。
身分制度というのは、江戸時代だろうが、明治時代だろうが色濃く存在していたのです。
身分の低い人間は武士も農民も「自分で考えて行動する」などということはありませんでした。
自らの意志で、自らの運命を切り開き、自らの分を得て、それによって起きたことの一切の責任を負う。
これこそが「自由に生きる」です。
意志や意気が介在しまくっています。
先日、PTAの会長なにがし、と話をしましたが、
登下校のルールをしっかり成文させ、各家庭に配って徹底させてほしい。
と、申し立てる私に対して「子供たちが二十歳になって自分で判断したり、考える子供になってほしいので、子供たちの自由を尊重したいのです。」と、成文の必要はまったくないとのこと・・・
子供たちは、というと・・・
登下校の通学路で、幼児をこけさせ、下級生を取り囲み因縁をつけ、お金を要求し、車道にものを投げたり、横断歩道の途中で円陣組んでジャンプ遊び、途中の花壇に落書き・・・
「地域の人に怒られながら大きくなってほしい」というのです。
「先生たちが朝会で言ってくれていると思うので。」
まったく、馬鹿馬鹿しい・・・また、学校に丸投げです。
「自由」という言葉は「勝手」の丁寧語だと思っているのです。
福沢諭吉は今頃、草葉の陰で「ちゃうっちゅーねん!」と逆手ツッコミを入れているはずです。
「自由」というのは、自らの「意志」や「意気」が「生」じゃなく
ちゃんと「考える」ことで「調理」することができる生命体にだけ許された特権なのです。「自らを由」とするには、まず「自」が成立していないといけない、つまり、「自分」を得ていないといけないということです。もっと言えば、コミュニティに自らが負っている責任を受け入れている人間にだけ、許されていることなのです。
あのような状態で、どこが「自分を得ている」と言うのでしょうか?いつ責任をとったのでしょうか?
勝手を放置することが、自由を尊重することになるなら、民主主義なんてクソ喰らえ!
愚民の国で多数決なんて、恐ろしいわい。
「自由」という尊い特権は「生意気」な「我鬼」(がき)には、与えられていないのです。
早い話、(いまさらですが)今の子供は、生意気な餓鬼ばかり。「我鬼」であり「餓鬼」です。「意気」を「調理」されるというのは、心と魂の栄養です。生のまんま放置されるから餓えているのです。育てることは、養うこととは違います。教育とは、どんな形でもいいから「考」というフライパンを持つことを教えることです。
時には、可愛い子供のドス黒い悪意とも向き合うことも大切なんです。
福沢はん、わたくしが代わりに、とっておきの逆手ツッコミ入れときますわ。
「自由と勝手、いっしょにせんとって!」
On the Way to Emmaus
ちょっとイタズラっ子のようなイエスの姿に
底抜けのやさしさを感じます。
英語の聖書では「Foolish」「ばかだな~」とかいうキツイ言葉も使っているのですのですが
これは、きっと紀元33年当時の、イエスたちが話していたヘブライ、ギリシャ語、または(可能性は低いですが)ラテン語の言語文化として、そ~んなキツイ表現ではなかったのではないかと思います。
イエスの処刑後
弟子たちは落胆しきっていて、おそらく離散寸前だったのでしょう。
それもそのはずです
イエスの宣教活動はたった3年
奇跡が嘘だったら、こんなにも短期間であれほどの信者を集められなかったはずです。
イエスを支持する人々の数がおびただしかったから、ユダヤ教の司祭たちは、イエスを処刑しなくてはならなかったのです。
しかし、そんな勢いも、元祖カリスマたるイエスが死んでしまったのだから、終わりです。
この弟子たちがどうしてエマオに行ったのかはわかりませんが、二人が落胆しエルサレムを離れていこうとしていることからも、弟子たちがイエスを失って、信仰指針を失っていることがわかります。2人は、イエスの復活を疑いながら歩いています。
しかしながら、キリストの教えは、ここでは終わらず、イエスの死から1985年たった今も、広がり続けています。
私も、この復活に対して長い間疑問を持っていました。
私が支持したのは、「集団トランス論」です。
イエスの死に大きな衝撃を受けた弟子たちが、イエスの復活という、幻想によって、心理的ストレスを処理した・・・。
長い間そう思っていました。
嘘だとは思っていませんでした。嘘にしては、証言がバラバラすぎます。 イエスの後継者となったペテロは、強い説得力のある男でしたから、そうしようと思えば、弟子全員の証言を操作するなど、容易にできたはずです。
証言がバラバラなのは、周到に用意された嘘なのではなく、各個人が自分が体験したことをそのまま証言したからです。
そして、嘘を裏付ける証人として、女性を登用するなど、ありえないことです。
イエスの復活を最初に目撃したのは、マグダラのマリアをはじめとする、女性たち。当時の女性たちの社会的身分の低さを考えると(発言権など全くなかった)、話の信ぴょう性を立証するキャストとして、女性を選ぶとは、考えられないのです。
ですから、嘘であるということはあり得ません。
だから、私は「集団トランス論」によって、イエスの復活という出来事を処理していました。
しかし、それでは辻褄が合わないのです。
集団トランスというのには、閉鎖された空間、という要素が必要ですが、イエスの死の際、弟子たちはバラバラの場所にいますし、女性たちも別々のところから、イエスの遺体を清めに墓に向かうのです。そして、トマスはイエスの死を目撃していませんが、復活したイエスの体に触れたと証言します。トマスはイエスの死後エルサレムに帰ってくるのです。
イエスの受けた拷問は、それは壮絶なもので、それを目の前で目撃したヨハネや生母マリアが心的ストレスから一種のトランスに陥るのもわかるのですが・・・
弟子たちのほとんどは、イエスの逮捕の時に逃げ出してしまっているのです。
論理的に辻褄が合いません。
そして何よりも、「イエスの復活」を裏付ける証拠は、1985年の時を経てもなお、キリスト教が存続している、という事実です。
このエマオへの道のエピソードが示しているのは、弟子たちは、絶望して離散しようとしていたということです。事実この二人は、エマオで復活のイエスに遭遇したあと、慌ててエルサレムに引き返しています。逮捕の手は、イエスの弟子にまで及ぶ可能性もあり、みんな息をひそめて潜伏していました。この二人はあきらめて、エルサレムから出ようとしていたのに、わざわざ、危険を冒してまでエルサレムに戻っています。
そして、イエスの復活を証言し、弟子たちはそこから、なんと、キリストの教えを広める活動を始めるのです。それで、彼らはどんな得をしたのでしょうか?
大金を得たのですか?
まったくそんなことはありません。それどころか、彼らはさらなる迫害に会い、後継者だったペテロは、逆さ十字架にかかって亡くなります。いったい何の得があって、そんなことをするのでしょうか?
イエスの顕現を見たからこそ、死をも覚悟で宣教したのではないでしょうか。
どの宗教も迫害の経験があります。しかし、布教することで拷問を受けて、自ら死に向かっても布教していったのは、キリスト教だけです。
イエスの顕現が嘘だったり、単なる幻想だったとしたら、人をこれだけのことに駆り立てるには、弱すぎる要素です。
天皇のために、敵機に突っ込んでい行った特攻隊の心理に似ているのでは?と言われる方もおられます。しかし、まったく違うのです。天皇とは地上の権威です。イエスはこの時も虐げられた、大工の息子です。地上の権威というのは、豪華な邸宅だったり、その権威を裏付ける物的要素があります。しかし、イエスはといえば、ロバに乗ってエルサレムに入っていくのです。
十字架という見せしめの刑罰で、両隣を盗人に挟まれ「罪人」として死んだのです。
こんな状況で死んだ人のために、あれだけの人数がトランスに陥り、死をも憶さずその言葉を広めようなどという気にさせるなら・・・イエスという人の「PASSION」に「真実」があるからではないでしょうか。
そして・・・
私たち一人ひとりが、イエスの復活を真実だと証ししているのです。
何の得もしないのに・・・、拷問されて死ぬかもしれないのに、その教えを広めようなどと、貴方ならしますか?
私なら、「惜しい人を亡くしたわ」と気の毒には思っても、せっせと現生の権力にへつらいながら、生きていくでしょう。
それが人というものです。しかし、弟子たちは「宣教」したのです。
今の世の中、もはや奇跡は必要ありません。
そのように備えられたのです。・・・・二千年の時を経て。
私にとって、科学こそ神が与えられた人類最大の「恵」です。論理こそが神が人に与えた最高の「技」です。
奇跡が必要ないのは、私たちのように、「無名の個人」でも、論理的に合理的に考え、自分で判断する・・・つまり「自由」が認められた時代だからです。
これが、真実です。
2017年4月17日月曜日
PtAは解散すべき
亡くなられた レェ・ティ・ニャット・リンさんのご冥福を心からお祈りします。
主が一日も早く、ご遺族の心に平安をもたらされ、御手を働かせ正義が行われますように。
さて、見守り活動という活動は
息子が通う学校も実施している。
しかし、私は一切、活動への参加を拒否しています。
そもそも、日本のPTAはとんでもない「茶番」
仲良しごっこの延長線にあるのです。
まったくその機能を果たしていません。
去年入学してから、たびたび通学時間に通学路を歩くことがありました。
うちの学校だけなのかもしれませんが、それはもう酷い歩行マナーで
横断歩道の真ん中でじゃんけんをしたり
マンションの花壇に落書きをしたり
歩道から車道に、水筒の紐をもって本体を投げたり
鬼ごっこをしながら走るのはいいのですが、後ろ向きに走って
小さなよちよち歩きの2歳児の上に尻もちをついたり・・・
その横で・・・見守り隊の保護者は
いっつもぼ~っと見ているのです。
見守り隊からの報告として
「子供たちは年々挨拶ができなくなっている」
とありました。
何を言ってるんだ・・・と思いました。
「イカノオスシ」を唱えているだけでは、子供たちを守ることはできないのです。
息子の事件も通学路で起きました。
私は登下校のルールをはっきり文章にして、全部の家庭に配り、各家庭でマナーや道路交通法に通じる規律を確認するべきだ、と何度も学校にもPTAにも進言しましたが、PTA会長からはこのように返ってきました。
「二十歳になったときに自分で考えれる大人になってほしいので、私は子供たちに、地域の人に怒られながら大きくなって行ってほしいんです。」
これを、地域の方はこれを聞いてどう思われるでしょうか?
自分の子供を転倒させられた親は?
子供たちは、後ろ向きに走った末起きるリスクの可能性も、それに対し個人が負わなくてはいけない責任も、何も知らないのです。転倒させることは刑事犯罪です。
道や壁や花壇など、外にあるものに落書きをすることに対して負うべき責任も、そこから派生する地域治安へのリスクも知らないのです。落書きも刑事犯罪です。
知らないからしてしまうのです!犯しているのは刑事犯罪なんです。
子供に最低限の礼節を教えもしないで、公道に放ち、教えてやってください!などというのは、ちょっと厚かましいです。
こんな親の集団が、PTAなんです。
ロリコンの会長がいたって、驚くこともありません。
結局、うちの子供の身に起きたことに対しても、PTAも学校も、再発防止のために何もしてくれませんでした。
私は見守りだろうが、一切のPTAの活動への協力を拒否し、息子の安全は自分で確保することにしました。
そもそも、PTAとは「Parents and Teachers Association」の略なのですが、完全に学校はアウェイになり、介入しません。保護者会になってしまっています。
訓練を受けた(という前提が一応ある)プロ集団(であるはずの)たる「T」すなわち「教師」の存在が飛んでしまい、個人の欲求や都合を優先させる「P」すなわち「保護者会」だけが、学校を代表して活動しているのです。
個人情報も垂れ流し状態です。
テレビで「PTAの会長がこんなことをしてしまったのだから、もう誰を信じたらいいかわからない」
そもそも、こんな状態のPtAを信頼することが狂気の沙汰です。
一応、各地方自治体にPTA連が存在し、常駐の職員がいます。でも彼らはいったい、何をして給金を得ているのでしょうか?どのPTAも無法地帯、わがまま放題、やりたい放題のママ友のお茶会になっているのに?
この人達の給金を、教員に回してほしいです。その方がよっぽど子供たちのためになりますって!
もう少し、公の権威で統制される機関であるべきなんです、PTAとは。
リンちゃんの事件も、PTAという組織が公的規制を受ける組織であれば、起きなかったのでは?リンちゃんのご両親がベトナムに帰国する費用を賄うための募金活動を容疑者が保護者会会長としてしていたから、リンちゃんは、容疑者を信頼していたのでは?恩人だと思っていたのではないですか?
もっとPTAという組織に規律と秩序が、示されるべきなんです。
日本公立学校のPTAは
解散し、仕切り直すべきです。
PTAに関連する法律、条令を見直し、
合法的かつ合理的なPTAの規律を作り直さなくてはいけません。
ボランティアの活動であるからこそ、明確なルールと倫理規範が必要なんです。
余談ですが、息子が今行っている学校の組織表に、最も重要なポストとして「男性会長一名」と書いてありました。その下に副会長に相当するポストが「女性会長二名」なんだそうです。今時何を言っているんだか!?
申し訳ない、ありがたい
その遠慮こそが、PTAの堕落と横暴を招いたのだと思います。
主が一日も早く、ご遺族の心に平安をもたらされ、御手を働かせ正義が行われますように。
さて、見守り活動という活動は
息子が通う学校も実施している。
しかし、私は一切、活動への参加を拒否しています。
そもそも、日本のPTAはとんでもない「茶番」
仲良しごっこの延長線にあるのです。
まったくその機能を果たしていません。
去年入学してから、たびたび通学時間に通学路を歩くことがありました。
うちの学校だけなのかもしれませんが、それはもう酷い歩行マナーで
横断歩道の真ん中でじゃんけんをしたり
マンションの花壇に落書きをしたり
歩道から車道に、水筒の紐をもって本体を投げたり
鬼ごっこをしながら走るのはいいのですが、後ろ向きに走って
小さなよちよち歩きの2歳児の上に尻もちをついたり・・・
その横で・・・見守り隊の保護者は
いっつもぼ~っと見ているのです。
見守り隊からの報告として
「子供たちは年々挨拶ができなくなっている」
とありました。
何を言ってるんだ・・・と思いました。
「イカノオスシ」を唱えているだけでは、子供たちを守ることはできないのです。
息子の事件も通学路で起きました。
私は登下校のルールをはっきり文章にして、全部の家庭に配り、各家庭でマナーや道路交通法に通じる規律を確認するべきだ、と何度も学校にもPTAにも進言しましたが、PTA会長からはこのように返ってきました。
「二十歳になったときに自分で考えれる大人になってほしいので、私は子供たちに、地域の人に怒られながら大きくなって行ってほしいんです。」
これを、地域の方はこれを聞いてどう思われるでしょうか?
自分の子供を転倒させられた親は?
子供たちは、後ろ向きに走った末起きるリスクの可能性も、それに対し個人が負わなくてはいけない責任も、何も知らないのです。転倒させることは刑事犯罪です。
道や壁や花壇など、外にあるものに落書きをすることに対して負うべき責任も、そこから派生する地域治安へのリスクも知らないのです。落書きも刑事犯罪です。
知らないからしてしまうのです!犯しているのは刑事犯罪なんです。
子供に最低限の礼節を教えもしないで、公道に放ち、教えてやってください!などというのは、ちょっと厚かましいです。
こんな親の集団が、PTAなんです。
ロリコンの会長がいたって、驚くこともありません。
結局、うちの子供の身に起きたことに対しても、PTAも学校も、再発防止のために何もしてくれませんでした。
私は見守りだろうが、一切のPTAの活動への協力を拒否し、息子の安全は自分で確保することにしました。
そもそも、PTAとは「Parents and Teachers Association」の略なのですが、完全に学校はアウェイになり、介入しません。保護者会になってしまっています。
訓練を受けた(という前提が一応ある)プロ集団(であるはずの)たる「T」すなわち「教師」の存在が飛んでしまい、個人の欲求や都合を優先させる「P」すなわち「保護者会」だけが、学校を代表して活動しているのです。
個人情報も垂れ流し状態です。
テレビで「PTAの会長がこんなことをしてしまったのだから、もう誰を信じたらいいかわからない」
そもそも、こんな状態のPtAを信頼することが狂気の沙汰です。
一応、各地方自治体にPTA連が存在し、常駐の職員がいます。でも彼らはいったい、何をして給金を得ているのでしょうか?どのPTAも無法地帯、わがまま放題、やりたい放題のママ友のお茶会になっているのに?
この人達の給金を、教員に回してほしいです。その方がよっぽど子供たちのためになりますって!
もう少し、公の権威で統制される機関であるべきなんです、PTAとは。
リンちゃんの事件も、PTAという組織が公的規制を受ける組織であれば、起きなかったのでは?リンちゃんのご両親がベトナムに帰国する費用を賄うための募金活動を容疑者が保護者会会長としてしていたから、リンちゃんは、容疑者を信頼していたのでは?恩人だと思っていたのではないですか?
もっとPTAという組織に規律と秩序が、示されるべきなんです。
日本公立学校のPTAは
解散し、仕切り直すべきです。
PTAに関連する法律、条令を見直し、
合法的かつ合理的なPTAの規律を作り直さなくてはいけません。
ボランティアの活動であるからこそ、明確なルールと倫理規範が必要なんです。
余談ですが、息子が今行っている学校の組織表に、最も重要なポストとして「男性会長一名」と書いてありました。その下に副会長に相当するポストが「女性会長二名」なんだそうです。今時何を言っているんだか!?
申し訳ない、ありがたい
その遠慮こそが、PTAの堕落と横暴を招いたのだと思います。
2017年4月14日金曜日
PASSION WEEK
レント
想いは二千年の時を経て
なおも赤く燃え続ける
迷子になった幼子を想う
母の想い
あれほどの苦痛
あれほどの屈辱
それは不動の事実
なにが罪なのか・・・
などと問う人の中に
私も在った
例えばある幼子がいて
その子が勝手に居場所を離れ
迷子になれば
血眼になって母は探すだろう。
何時間も探した末に
その子を見つけたら
その母親は、どうするだろうか
頬を打って
いさめない母親がいるなら
それこそ、母親じゃない。
いさめるのはその子の
「勝手」
憎むべきなのは、「勝手」という
サタンによる
思いそのもの
「餓鬼」そのものを打つのだ。
では、頬を打たれた子供はどうするだろう。
母の悲しみに対して
「ごめんなさい」と言わないだろうか?
親ならば、ここで「ごめんなさい」と言わない子の生末を
思い煩わない者はいないはず。
それは、滅びに向かう印だからだ。
キリストは
何の罪も犯していない
むしろ、貧しい人に施し
病を癒し
虐げられた人のそばにいて
愛を語った
ひたすら
愛を語ったのだ。
そして
そのために、十字架に処せられた。
鞭うたれ肉と骨を切り刻まれ
さげすまれ
唾を吐かれ
生母の目前で
手足にくぎを打ち込まれ
死んだ
これは
不動の事実
これを「偽り」だというのは
単に究極に愚かなのなだけだから
人間なみの知性を持てるようになってから
考えればいい
それが死ぬ前に起きることを願えばいい。
しかし
本当の罪は
イエスの死が歴史的事実だと知りながら
どうして?と問わないことだ
人として生まれ
人としての他の動物を超える知性を与えられながら
問うことすらしないこと
それが、本当の罪なのだ
私は苦しみの中に
自分の中にいるイエスと遭遇した
私の頬が打たれたのだ
そう気づいたとき
私は大声で問うた
貴方はどうして、十字架にかかったのですか?
充分逃げられたし
嘘だってつけばいい
なぜ
敢えて十字架の死に向かわれたのですか?
そう問うた時
神は、即座に答えられた
「この瞬間のために・・・」
2017年4月10日月曜日
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Ryo Discovers the World 最終回 五妃街と神農街
Rei and Ryo's Taiwan review, the last chapter. 一ヶ月に渡ってお送りした、台湾シリーズの最終回です。
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べレシート〜はじめに 大石教会の金井牧師が、みっちり神学を教えてくださる「金井塾」で 金井先生が「モーセ五書は全部、その文章の初めの文章から抜粋された文言が タイトルになってる」と教えられ… 「へぇ〜」っと思った私 創世記が「べレシート」(ヘブル語...
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<ツェレム> ヘブル語で聖書を読むと、「かたち」と訳された言葉は「ツェレム」(צֶלֶם)です。 ツェレムは、「型」と言う意味です。 冠詞がついてベツェレム・エロヒームという言葉で、 ツェレムの意味は、イメージ、像、型に流し込むこと・・・です。 創造主...
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書きます 「夜の訪問者」とはJ.B. プリースリー作の戯曲で、原題を "An Inspector Calls" ~ある刑事の来訪~と言います。先日BBCで放送された映像化ドラマによってはじめてこの作品をビジュアルで体感した、ムナカタですが、衝撃的でした。 ...