あまついのちの うちはじまれる
創世記第一章1~3節
はじめに神は天地を創造された。地は混沌であって闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。
今年は庚子年(かのえねどし)金の陽性の子年です。毎年言うことですが、ネズミとはまったくなんの関係もありません。「字も読めない頭の悪い人々のために」と用意された偶像は、字が読めるならば、そのようなもの侮辱として、はねのけなくてはなりません。
図にあるのは、「庚子」という文字の原形です。
「庚」とは
上の部分だけだと
ここにも、神がこの全世界を創造し、東の民にその証拠を残されたことがわかります。
これは、「きね」として、私達に伝わった漢字で、午後、午前の「午」という字です。
十二支は、「陽」のエネルギーがうち震えて、命を発生させて、生命体として成り立つ様子を表していますが、実はそこに使われている字はすべて、何かがかけている文字なのです。つまり、私達が自分の意思で隠れた方の文字を知ろうとしなければ、わからないようになっている暗号なのです。
そして、これはユダヤ思想の元となった「カバラー」まったく同じです。キリスト教徒は、自分たちには理解できず、都合が悪かったユダヤ思想のあらゆる要素を否定しました。「異端」と言って排除したのです。カバラーにあるツィムツームは宇宙創造の真実なのですが、それが真実だと、男性社会でなりたっているヨーロッパの社会システムを否定しなくてはならないのです。
ですから、神は東にある我々アジア人の住む地域に真理をお預けになったのです。
私達はこの暗号を「discover」(覆いを取り払う)しなくてはいけないのです。
庚の文字は、3つのもので構成されています。「人」「十字架」(数字の十は完全なるものの意)そして、2つの手です。
本来、金の陽性は「鉱物」、つまり鋼を表します。カバラーでこれは、「エゴ」「争い」「処刑」「殺人」つまり剣を表します。
人が、十字架にかけられ、苦悩を受けている象形が、「庚」という字に預言として託されたのです。
次に、「子」という字です。クリスチャンなら「子」が聖書では神の子「キリスト」を表すことを知っています。この文字は本来「孳」という文字を書きます。上に「慈愛」の「慈」の冠と同じ文字があります。これを、元の象形文字になおすとこうなります。
冠は「震える」という意味ですが、神社に雷の形のような紙がロープからぶら下がっているのをご存知でしょうか?あれは、エネルギーの震えなのです。しかし、この象意、私のこの記事でもご紹介した「宝」「寶」という文字のご紹介のときにも登場しました。(英語でしたが)
左がわの「玉」という文字の象形にもにていますし、右側の「缶」という字の「午」の象形にも似ています。(本来は酒をいれるひょうたん)玉という字は「羊」という字に似ています。 これらすべてが、キリストを意味するのがおわかりでしょうか。
キリストは「神の子羊」として、人間の罪のために過ぎ越しの祭の日、生贄として捧げられました。そして、神は子と聖霊とで三位一体の神であります。3つの玉を通して束ねた「玉」は「王」という意味であり、三位一体の神の絶対権力を表しています。
左のは「玉」(王という意味)はわかるけど、「午」はなんでよ!と思われるでしょう。
みなさん、子午線をご存知でしょう。北と南にまっすぐに伸びた地理上の直線でその子午線が各地の時間を区切るのです。十二支は方位も表します。つまり、「子」は真北で、その反対側にある「午」は真南です。だから子午線というのです。
十二支は時間も表します。「午前」「午後」という時間は、「午の時」つまり「正午」で区切られます。
「午」は杵臼の「きね」の象形から起こった漢字です。おりかえし地点という意味があります。ターニングポイントなのです。 キリストが人の子として天から、地に降りてきた時、何が起こりましたか?「紀元前」と「紀元後」という時間の区切りが起こりました。
イホシュアは、人間の魂のターニングポイントです。彼によって、私達の魂が変わるのです。「午」たるイホシュアを通らなければ、人間は落ちる一方です。上がることが出来ないのです。
つまり「孳」というのは、天地創造の時に存在した、御子イホシュア・ハマシア(キリストの本名)の事をさしているのです。
じゃあどうして、2つなのでしょう?
「神は天地を創造された」とあります。私もこれは最近教えていただいたことなのですが、ヘブライ語で「天」シェバマイムと「地」アレツを創造したと書いてあるのです。
アレツは単数形なのですが、シェバマイムは「2つある」という双対形という複数形なのです。私は孳の2つの「玉」は、この双位一対の「天」を表していると思っています。
庚子年の預言は、残念ながら、ここから人間が大変な患難を生きていくということです。キリストを処刑した時の世界は、ヘレニズム社会たる「ローマ帝国」が世界を整復し、人々はアイデンティティの危機に苦しみ、戦争が起こり苦悩の時代が始まるのです。来年は辛丑年ですから。
人間のエゴが頂点に達し、無実の愛に溢れた男が十字架にかけられるような社会気運となるのです。人々は人身御供を求め(キリストの処刑を求めたのは、ユダヤの一般市民です)自分たちを正当化するために躍起になるのです。どんなに真理を突きつけられても、もはや受け入れられない人間は鬼となり、この世を蝕んでいくでしょう。
もう、宗教の話はやめなくてはいけません。この言葉の意味がわかる貴方は、救われているか、救われる可能性があるのです。(私の言葉が響いたかたは info@michelisanti.comまでご連絡ください。喜んで、福音を分かち合わせていただきます。)
ただ、覚悟が必要です。そういう私達が、「人身御供」にされるのです。しかし、それでも神に従う人は幸いです。「辛い」(来年の干「辛(かのと・金の陰性)」という字にキリストの愛を表す横一線「一」が入ると「幸」という字になります。頭に「十」を冠として掲げる人は、幸いなのです。
私達にとって、苦難はあっても一瞬です。
私は携挙に懐疑的です。ないんじゃないかな…と思っています。神の民は「携挙」についてはあってもなくても良いと感じるものです。「ぜったい有る」などという人は本当は救われていないのです。自分が患難時代を通りたくないからです。 患難時代は必ず訪れるので神の御心です。私達は御心を受け入れる強さを持っています。たとえ、その患難によって肉体が滅びても、私達のその後の永遠は栄光に満ちています。ですから、携挙があってもなくても、行くところは同じなのです。
救われている神の民は「携挙」はあってもなくても平気なのです。人身御供にだって、平気でなれるのです。神の名を知っているものは、そのようなことを恐れません。
雄々しくありましょう。
庚子年をおめでとうなどと、言う気には端っからなれませんが、喪中故慶辞は遠慮させていただきます。ただ、この時に私は強く福音を叫ぶものでありたいですし、これを呼んでくださっている皆様と共に子午線(死後線でもある)をちゃんと通れるよう、励まし合いたいと思います。
どうぞ、本年も棟方玲宇、椋宇(リョウ)の親子をよろしくお願いいたします。
※ 「十」の縦の線は「神の怒り」を表します。神の怒りは局地的に下るのです。しかし、横の線は「神の愛」を表します。神の愛はあまねく、たくさんの人に降り注いでいるのです。